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「スピリチュアル」と「ポジティブ信仰」



「ポジティブ」という言葉が急にたくさん使われるようになったのは、10年~20年ぐらい前からのような気がしますが、その時点では、大した違和感を感じたことはありませんでした。

でも、ここ数年の「ポジティブ」の使われ方にはどう考えても「行き過ぎ」としか言いようのない、異常さを感じてしまうわけなのです。
まるで、狂信的な新興宗教のような感じすらしますね。


そして、この「行き過ぎたポジティブ」の原因になっているのが「スピリチュアル・ブーム」なんじゃないかと思うわけです。
「スピリチュアル」も、だいたいこの20年ほどの間に急激に広まったものですから、だいたい時期も重なってますね。

「スピリチュアル・ブーム」」について言えば、「スピリチュアル周辺で起きていること」も含めると「スピリチュアル現象」と言ってもいいほどだと思いますけど、それほど影響が大きくなってきているということだと思いますね。

そういう「スピリチュアル」の影響の一つが「ポジティブ信仰」だと思うわけです。

こんなことを言うと、『「ポジティブ」=「前向き」で何が悪いんだ!』と言われるのかも知れませんけど、やっぱりどんなことでも「行き過ぎ」は良くないんじゃないかと思います。
まぁ、そういう所が「信仰」や「宗教」の欠点だと思うわけですね。

「絶対的なモノ」を基本に置いた考え方というのは、どうしても極端に走る傾向があるということですね。
「宗教」にもいい所はあると思いますけど、そういう「宗教のいい所」が発揮される機会は時代と共に少なく成っていると思います。

個人的な考えで言わせてもらえば、今後さらに少なく成るでしょうね。

「スピリチュアル」が「信仰」や「宗教」と言えるのかどうか、また、やっている人たち自身がどう思ってやっているのかはわかりませんが、少なくとも「スピリチュアル」は「絶対的なモノ」を基盤においている場合が多いと思うわけです。

そういうものというのは、例え「教団」とか「教義」とか「聖典」とか言うモノを持たない場合でも、「宗教」や「信仰」と区別するのは難しいと思います。
というか、やっている本人たちはともかく、第三者から見たら区別する意味がないと思いますね。

つまり、「スピリチュアル」は客観的に見た場合は「スピリチュアル教」なんだと思うわけです。
要するに、全てにおいて具体的なルールが決められていない「新しいタイプの宗教」、それが「スピリチュアル」ということなんじゃないでしょうか?
でも、「絶対的な原理」を設定しているとすれば、その「原理」こそが「完全にして唯一のルール」であるとも言えるわけですから、細かい規則が決められていないということは「宗教ではないこと」の理由にはならないわけです。

まぁ、「スピリチュアル」が「宗教」であるか否かはともかくとして、少なくともそれが「絶対的な原理」を持っているとすれば(たとえば『この世の中のすべてのことの根源に「愛」がある』と言う場合、「愛」が「絶対的な原理」として設定されているということですね)、やはり、「行き過ぎ」に成る危険は高く成るわけです。

その結果として、「ポジティブ」も「行き過ぎ」に成っていて、むしろ「スピリチュアル」以上に、あからさまに「カルト化」してしまっているわけです。
「ポジティブ」=「前向き」が「お題目」や、「お呪文」のように成っていて、『それさえ唱えれば幸福になれる』とか『それを否定するのは冒涜的な行為である』というように、まさに典型的な「インチキ宗教」のパターンになってしまっているわけですね。

 ※宗教全般を一概に否定しようとは思いませんが、「どうしようもない宗教」という
  ジャンルがあるのは確かなことだと思います。
  「スピリチュアル」がその「どうしようもない宗教」だとは思いませんが、「ポジティ
  ブ信仰」は間違いなく「どうしようもない宗教」だと思います。

当然、やっている人たちは気づきませんし、認めません。
これも、「その手の宗教」と全く同じパターンですね。

そして、こう言うことを聞いた人は、まず、いい顔をしません。
つまり、それだけ「ポジティブ信仰」に洗脳されている人が多いということです。


そして、これは前にも書いたことがあるんですが、こういう「スピリチュアル」から派生する「洗脳」が意外と危険なんじゃないかと思うわけです。

つまり、「スピリチュアル由来の考え方」には「自己洗脳的な性質」があって、「洗脳」をかけているのもかけられているのも自分ですから「非常に解けにくい洗脳」になってしまうような気がするわけです。

要するに「自発的な考え」とほとんど区別がつかなくなってしまうわけですね。
そうなると、どこからが「洗脳された考え方」で、どこまでが「本来の自分の考え方」なのかが非常に分けにくくなってしまうということですね。

それから、完全に油断しているということもあると思います。
「スピリチュアル」は、非常に安全なイメージがあって、「洗脳」や「カルト」とはかなり離れたところにあるモノというソフトなイメージを前提にして広まったものですから、多くの人が完全に油断しているわけです。
それで、疑惑を持ったり反対側の視点を持ったりすることなく、いつの間にかハマって行ってしまいます。

『「教団」もないし「教祖」も居ないのにいったい誰から洗脳されるっていうの?』

「自分」です。

つまり、自分で自分に「暗示」や「絶対的なルール」を課してしまうわけですね。
そして、そこから抜け出せなくなってしまうわけです。
しかし、その自分で考えたように見える「暗示」や「ルール」はほとんどの場合、「スピリチュアル」が示唆している「暗示」や「ルール」であって、実のところ「自分起源」のモノとは言えないわけです。

そう言うモノの中の一つが「ポジティブというルール」なんだと思います。

とにかく、この「ポジティブ信仰」から抜け出さないと、活力のあるモノは何も生み出されなくなってしまいます。
「ポジティブ」というのは「肯定」ですから、「否定」だけでなく「批判」とか「反省」とか「改善」などと言う「モノを生み出す作業」に不可欠のものをすべて排除してしまいます。

本来の「ポジティブ」は、そんなものでもないんでしょうが、現在の「宗教化したポジティブ」においては、、そういうことが起きてしまうわけです。
「絶対的なルール」になってしまっていますから、いかなる場合にもそれに従わなければならないような空気があって、従わない人間は排除されてしまうわけですね。
自分であっても、他人であっても排除されます。

たとえば、このところパワハラ関連の問題が多く成っていますが、「パワハラ系」の人達はいっさい「反省」ということを知りません。
あれは、『そういう傲慢な人がパワハラを起こすんだ』と言ってしまえば、それまでですが、実は「ポジティブ信仰」と関係があると思うわけです。

「反省しない人」というのは「ポジティブな人」でもあって、その「ポジティブ」を自分のためにだけ使うことが出来る人が「反省しない人」であるわけです。
要するに、この「ポジティブ信仰に洗脳された社会」では、彼らが必ず出世するんですね。

どんなに「オカシイ人」でも出世します。
どんなに「嫌なヤツ」でも出世します。
かなりな所まで「無能」でも出世するんです。

なぜなら、彼らが「ポジティブ」だからです。

そして、彼等こそ「強力にポジティブ」な人なのです。
だから、必ず出世するわけです。
それが「ルール」ですから、逆らえません。

「パワハラ」のような「横暴」を「ポジティブ」ではなく「ネガティブ」だと思う人も居るかもしれませんが、彼らが「ネガティブ」なのは他人に対してだけで、あくまで自分に対しては「強力にポジティブ」なのです。

と言うよりも、むしろ、彼らの他人に対するときの「ネガティブ」は、彼らの自分に対する「強力なポジティブ」から発生していると考えるべきで、元に成っているのは、その「強力なポジティブ」だというべきでしょうね。
要するに、あまりにも「強力にポジティブ」であるがゆえに、他人を排除せずにいられなくなってしまうわけですね。
そして、彼らが出世した理由も、その「強力なポジティブ」だということです。

さらに言えば、単に強力なだけでなく、「オカシイくらいにポジティブ」な人と「マトモにポジティブ」な人が居た場合、「オカシイくらいにポジティブ」な方が有利になってしまうわけですね。
それが「カルト」と言うモノですから。

それから、『はじめはマトモだった人が権力を得て横暴に変わったんだ』というのも違いますね。
断言してもいいですが、彼らのような人は、はじめから横暴です。
権力が弱いうちは、そういう本性をすこし隠しているだけで本質的には初めから横暴です。
なぜならば、「ポジティブ」は、彼らにとってごく幼い時期までに刷り込まれた性質だからです。
だからこそ、彼らは「強力にポジティブ」になれたわけです。
そして、その「強力なポジティブ」が、権力や地位を与えられた途端に、一気に「横暴さ」となって本性をあらわすことになるわけです。
つまり、一方的な「ポジティブ」が刷り込まれた時点で、彼らは、もう「マトモ」とは言えないということです。

どんなものでもそうですけど、一方の方向にだけ偏ったものがいい結果を導き出すことはほとんどありません。
「ポジティブ=肯定」があれば、かならず「ネガティブ=否定」も必要に成ります。
そういうもんでしょ?違うんでしょうか?

これは「反省しない人」の例ですが、それと同じように「批判」や「改善」というような「現状否定的な要素」を持ったものが、全部排除されるように成ってきています。
しかし、「現状肯定」だけでは活力のあるモノは絶対に生み出されません。
そこには「試行錯誤」という段階が入る余地はありませんから、「進歩」というものは無く成ってしまうわけです。

絶対に「進歩」しなければいけないとは思いませんが、「変化」しないモノに活力が生まれることはあり得ません。
「肯定」だけが独走した場合「変化」は生まれなく成ります。
そこに残るのは「漫然とした現状維持」だけだと思いますよ。

「ポジティブ」が悪いんじゃなくて「ネガティブが排除されてしまう状態」が異常なんですよね。

それから、「パワハラおじさん」や「パワハラおばさん」達のことは手厳しく批判している人でも、その人自身が「ポジティブ信仰」に洗脳されているとしたら、結果的には「ポジティブなパワハラ」を推進してしまっていることに成ります。
要するに、反対側の観点を持たないモノは必ず「横暴」に成るって言うことだと思いますよ。

以上のことから、社会が「ポジティブ信仰」から一刻も早く抜け出してほしいもんだなと。

そんな風に思っておりますです。



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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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