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「ネガティブ試験」



「試験」というのは、「出来ること」を調べるためのものということに成っているわけですが、そこのところを逆に考えて、「出来ないこと」を調べるための「試験」という考え方があってもいいんじゃないかと思っているわけです。

 ※と言っても、「出来ること」は調べやすいんですけど、「出来ないこと」
  ってなかなか調べられないんですねぇ。
  要するに、「わざと出来ないフリをすること」が出来てしまうわけです。
  「出来ない人」が「出来るフリ」がをすることは出来ませんが、「出来る
  人」は「出来ないフリ」をすることが出来てしまうので、調べられないわ
  けですねぇ。

  だから、この話は考え方としてこう言うモノがあってもいいんじゃないか
  というような話に成ります。

学校の試験でも、国家試験なんかでも、とにかく「試験」と名の付くモノは、すべて『その人は何が出来るのか?』を試験することに成っているわけですが、実を言うと、ここには致命的な欠陥があって、その人が『出来る』からと言って、その人が『やる』とは限らないということが、完全に見落とされているわけです。


つまり、『出来る』ということは『でき得る』ということであって、『必ずやる』とは限らないわけです。
その人は「やろうとした時」には『出来る』でしょうが、やろうとしなければやりません。
そして、その人が『やろうとする人であるのか?』ということも、『いつやろうとする人なのか?』ということも、まったく「試験」されていないわけです。
だから、優秀な成績で「試験」をパスした人が、必ずしも優秀な人材とも言えない場合がけっこうあったりするわけですね。

反面、「出来ないこと」が「試験」できたとしたら、たとえば、『人を裏切ることが出来ない』とか『不誠実なことが出来ない』とか『嘘をつくことが出来ない』というような、いろいろな「出来ないこと」が「試験」で調べられたとしたらですね、そういう「試験」をパスした人は、常にその「試験結果」を繁栄した行動をとるはずです。
だって、その人には、そういうふうにしか『出来ない』わけですからね。

もちろん、「出来ないこと」を「試験」で確認するのは、かなり難しいと思いますが、「論文形式の試験」など、それなりに方法はあると思います。
いずれにしても、この「出来ない試験」=「ネガティブ試験」という考え方自体が大切なんじゃないかと思うわけですね。
少なくとも、「出来る試験」と「出来ない試験」の両方向からの試験を行うことで、改善することはあるんじゃないかと思います。

また、『出来ない』ということに「価値」を見出していくという方向性にも、『出来る』ばかりを追っている「現代の行き詰まり」を脱する手掛かりがあるんじゃないかと思うわけです。

そんなことからも、「ポジティブ試験」と「ネガティブ試験」をセットにした考え方があってもいいんじゃないかと思っているんですねぇ。


現在の「ポジティブ試験」では、「人間性」のような「曖昧な能力」を調べることは出来ません。
しかし、そういうことは間違いなく重要なことであって、「まったく無試験」の現状には、かなり問題があると思います。
おそらく、ただ単に『試験するのが難しいから』という理由で、これまでずっと「ネガティブ試験」は行われてこなかったわけですが、『難しいからやらない』という発想がよくないと思うわけですね。

しかも、「ポジティブ試験」の方だけは、必要以上に重視されていて、「出来る試験」をパスした人が『やる』とは限らないことは、もうわかっているのに、それを続けてしまっています。
そして、社会全体が「試験」に依存してしまっていますから、「試験」で選ばれた人や「資格」を持っている人が無条件で優遇されていたり、無審査で信頼されてしまったりするわけです。
(特に、「信頼性」については何ひとつ審査されていないのに!)

こういう状況が、現在の社会には向いていないんじゃないかと思うわけです。
つまり、現在は「能力の時代」から「人間性の時代」への移行期なんだと思います。

そして、その為に必要に成ってくるのが「ネガティブ試験」という考え方だと思うわけですねぇ。

これは、必ずしも「誠実さ」とか「良心」とかというような、いわゆる「イイモノ」だけに限ったことではなくて、たとえば「二つのことを同時に出来ない人」とか「要領の悪い人」とか「空気を読めない人」のような、今の世の中ではどちらかと言えば「ダメな人」に入れられているような人たちについても言えることで、「二つのことを同時に出来ない人」が「一つのことを確実にやる人」である確率は高いでしょうし、「要領の悪い人」が「真面目な人」である確率もかなり高いでしょうし、「空気を読めない人」が「不正を暴露すること」なども、ときにはあるかもしれません。
(少なくとも「空気を読める人」は絶対にそう言うことはしませんよね)

つまり、『出来ない』=「無能」ではないということです。
『ナニカが出来ない』ということは、『他のナニカが出来る』可能性を示唆している場合があるわけですね。

その点で、人間の場合は「知能が発達した動物」ということに成っていますから、少なくとも「知的な能力」については、どちらかというと「能力」が余っているわけです。
さらに、現在は「教育」も普及していますから、「必要低限の知識」はほとんどの人が持っています。
でも、ほとんどの重要な「試験」は「知的な試験」ですから、「出来る試験」にはそれほど大きな意味が無くなってきているわけです。
要するに、「必要な能力」ぐらいのものは、だいたいの人が既に持っているわけです。
だから、「試験」で「チョットだけいい成績をとる人」を選抜してもあまり意味が無いということですね。

しかも、前述のように、「ポジティブ試験」には致命的な欠陥がありますから、「出来ること」が全く役に立たない可能性もあるわけです。

その点「出来ない人」は、「出来ないこと」を、いつも必ず出来ないわけですねぇ。
そういう意味で、確実です。

まぁ、そんなことから「逆転の発想」ということで、「ネガティブ試験」という考え方もあっていいんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。



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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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