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「原因としての表現」と「結果としての表現」



どんなことでも、物事には「原因」があって「結果」があるわけですけど、表現にも「原因としての表現」と「結果としての表現」があると思うわけです。


誰かが表現したことが、めぐりめぐって別の誰かに影響を与えるというのが「原因としての表現」ですね。
それに対して、別のことに原因があってその結果として何かを表現するように成るというのが「結果としての表現」というわけです。

「芸術表現」の場合は、主に「原因としての表現」でしょうね。
「社会的な運動」や「政治的な主張」などは、どちらかと言えば「結果としての表現」ということに成ると思います。

「社会的な運動」や「政治的な主張」などを、物事の「原因」と考える人も居るでしょうが、私はどちらかと言うと本当の「原因」が別の所にあって、その「原因」と成っていることを『変えよう』としたりして出て来るのが、そういった「運動」や「主張」なんじゃないかと思うわけです。
たとえば、「原因」としての「差別」があって、「結果」としての「差別撤廃運動」が起きるというようなことですね。


それはさておき、「芸術表現」の方なんですけど、どうして「芸術」が「原因としての表現」なのか?と言うと、「芸術表現」は「具体的な目的」を持たなくても成り立つからなんですね。

「社会的な運動」や「政治的な主張」には必ず「具体的な目的」がありますよね。
たとえば、『差別をなくしていこう!』とか『不正を排除してクリーンな社会にして行こう!』というような「具体的な目的」が無いと、そういう「運動」や「主張」って成り立たないんだと思うわけです。

でも、「芸術」に関して言うと、そういう「具体的な目的」は必ずしも必要ではなく、むしろ妨げに成ることの方が多いと思います。

なぜならば、「純粋性」が失われてしまうからです。

つまり、「具体的な目的」があるということは、「芸術」が「自分の目的を達成するための手段」になってしまうということですからね。たとえば「政治的プロパガンダ」のようなものに「芸術」が利用された場合は、どうしても「純粋性」が薄まってしまうということです。
そして、それは「その目的」が如何に純粋なモノであったとしても同じで、それは「目的意識」としては純粋であっても「芸術」としては純粋とは言えなく成ってしまうわけです。

「反戦」や「平和」を表現している場合、一見するとそれが純粋なモノに見えるわけですが、実はそれが純粋であるのは「主張」としてであって、「芸術」としてではないわけです。
つまり、如何に純粋な主張であっても、それをその主張以外の手段で人の心の中に刷り込んでしまえば、それは一種の洗脳になってしまうので、その「純粋性」は低くなってしまうということですね。

 ※「人道的な主張」などを一種の「芸術表現」として発表し続けている作家
  の方が結構いらっしゃいますし、そう言う人の中には世界的に評価が高い
  人なんかも居らしたりしますけど、そういう人たちの「表現」は、あくま
  で「主張」として評価されるべきものであって、「芸術」として捉えたり
  評価したりするのは間違いかなと思います。
  そういう「表現形態」が絶対にダメだとは思いませんが、そういう「表現
  形態」が「アリ」なのは「弱者側の立場」に立っている時だけだと思いま
  すし、それも「芸術」とは言えないと思います。
  というか、そういう「表現形態」は「主張」として成立しているわけです
  から、ある程度世の中に普及させることが出来た後(これはやむを得ない
  場合があると思います)は「芸術」を名乗る必要もないんじゃないかと思
  いますよ。

やっぱり、「芸術」と言うのは、「具体的な目的」を持たない「純粋な衝動」から発生するのが理想だと思うわけです。
とはいえ、人間のやることなので完璧にとはいきませんから、「努力目標」ということですけどね。

「芸術」が「純粋な衝動」から発生するものだとすれば、それは、何もない所から発想されて「表現」として外に向かって現されるということでしょう。
ということは、「芸術」は、それ自体が第一義的な存在であるということですから、他のことの「原因」に成ることはあっても、他のことを「原因」とした「結果」であるということは無いわけですね。
まぁ、これはあくまで理想論ですけどね。

そして、そういうことから「芸術」は世の中に対して、常に「原因」であり続ける存在なんだと思っているわけです。
つまり、「芸術」がいつも世の中に対して影響を与え続けているということですね。

これを言うと、『芸術なんて大した影響力はないよ』と言う人が居ますが、それは違いますね。
その人は「潜在的な影響」がいかに大きいかに気が付いていないだけです。

つまり、「表面的な影響」の方に目を奪われて、「潜在的な影響」が見えなくなっているんでしょう。
でも、実は、その「表面的な影響」は、すべて「芸術」のような「潜在的な影響」の「結果」であって、「表面t黄な影響」自体がいちばん最初の「原因」であるということはほとんど無いわけです。

それだからこそ、『芸術は美しい』と言えるんじゃないかと思いますし、それだからこそ、「芸術」は世の中に対して責任があると思うわけです。

つまり、「芸術の在り様」によって「世の中の在り様」も変わって来てしまうということです。

でも、これは必ずしも「芸術」に限ったことではなく、世の中に対して全く影響がないことなどありませんから、世の中に対して責任がないものなんて無いわけですけどね。
それは、「結果的なモノ」であっても同じで、その「結果」が二次的に「原因」と成って影響を与えるわけですね。
ただ、チョット「芸術の影響」が強いということだと思います。
その「チョット強い」の部分が「芸術が第一義的な存在である」ということに因るんだと思うわけです。

とにかく、「芸術」は「無目的」で「一義的」で「純粋」な「ゼロからの発想」によって創作されるのが理想なんだと思いますから。

「芸術」がそういうことをやらないと、世の中に「純粋なモノ」が一つもなく成ってしまいますから。

と、まぁ、そんなことを言ってみたわけです。





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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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