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「ナショナリズム」の本質



「ナショナリズム」についてです。

自国の利益を優先したり、自国の優越性を誇示したり、それらのことのために自国に献身することを「ナショナリズム」と言うわけですが、これがどうも私には理解できないないんですね。
スポーツなんかでも、なんで、自国の選手やチームしか応援しないんですかねぇ。

わかりません。

まぁ、身近な人物に肩入れしてしまう気持ちまではわかるんですけど、徹頭徹尾自分の国しか応援しないというのはどうも理解できません。
オカシイんでしょうか?わたし。

自分のことで言うと、どうしてもスバラシイ選手の方を応援したくなってしまうんですねぇ。
必ずしも「強い」とか「ウマイ」と言うんじゃなくて「そのスポーツの選手」として『実にスバラシイなぁ』と言う選手っていますよね。
そういう選手がいると、その人を応援したくなってしまうわけなんですねぇ。
たとえ日本人選手が相手だったとしてもです。

迷いませんね。

もちろん日本人を一切応援しないということじゃないでけど、日本人選手のことは情報が多いですから好きになる確率も高くなりますが、その反面、嫌いになることも多く成るわけです。
そうなると、どちらかと言うと外国選手に肩入れしたくなってしまうこともかなり多かったりします。
やっぱり、ヒネクレテいるんでしょうかねぇ?

とにかく、良いか悪いかは別として、私には「ナショナリズム」と言われるような考えが、やや欠如していると思います。

そこで、その「ナショナリズム」とはいったいナニなのか?と考えてみたわけです。
「ナショナリズムの本質」ですね。

で、結論から言ってしまうと、「ナショナリズム」っていうのは「最大単位の利益追求」なんだと思うわけです。
つまり、自分が所属している最大単位の集合体のための「利益追求」が「ナショナリズム」なんだと思うわけですね。

今は、「国」が世界中の人にとっての最大単位の集合体ですから「国家主義」=「ナショナリズム」なわけですね。
と言うか、「国」っていう言葉がそういう言葉なんだと思います。
つまり、地域的・民俗的・文化的な最大の区分を「国」と言うのかも知れません。
そのスケールがだんだん大きく成って、現在の「国家」に至っているんだと思います。

まず、ここに一つの「言葉の仕掛け」があって、「国」と言う単位を、「法・秩序」とか「政治的統治」とか「権力機構」と言う管理体制だと思いがちですし実際にそうでもあるんでしょうが、それはあくまで組織の枠組みとしての「国家」であって、「ナショナリズム」における「国」とは少し違う単位だと思うわけです。
(まぁ、たいてい「国家」と「国」はほぼ一致していると思いますけど)

戦国時代の日本では、現在の「県」くらいの単位が「国」だったわけだし、その逆に、先の時代に成って、地球外生命体が現れれば(めったに現れないと思いますけど)「地球」や「星」と言う単位が「国」に成るんだと思います。

いずれにしても、その「最大単位の集合体」のための「利益追求」が「ナショナリズム」の本質的な意味だと思います。
だから、「自国」と「他国」であれば、いかなる時であっても「自国」の方を優先しますし、「お国のため」であれば、「個人」は犠牲になってもやむを得ないということに成るわけですね。

『国を愛する』と言うと美しいことに聞こえるんですけど、実を言うと「利益追求」なんだとすれば、『それほどでもない?』と言う感じもしてくるわけです。
本来、人間は「人間」を愛するように出来ているような気がするんですが、「国」って、ホントに愛せるもんなんでしょうか?

集合体の単位を小さくしていって、「家族」だったら問題なく愛せると思います。
でも、「親族」ぐらいでも、もう怪しく成って来ます。
「地域」なんてもうほとんど何の意味もなくなりつつありますよね。
それなのに、一足飛びに「国」だと愛せるって、なんかオカシクないですか?

これは、「愛情」と「利益」の二つが重なっていることで、見えにくくなるんだと思うわけです。

「家族」の間は基本的に「愛情関係」で成り立っているわけですが、「親族」に成るとそうとも限らなくなりますよね。
血縁と言うだけでろくに会ったこともない人も居るわけで、特に親しい叔母さんとかじゃない限り「愛情」の持ちようがないことも多いということです。
「地域」なんかだと、ほぼ「関係ない」ということなわけですから、「愛情」以前の問題でしょう。

でも、実はこのことは「国」でも同じことで、たとえば「スポーツの選手」なんて知らない人ばかりですから、「愛情」なんてあるわけがないです。
それなのに、どうして日本人だというだけで無条件に応援してしまうんでしょう?
「国」に「愛情」を感じている人が、こんなにもたくさん居るのはなぜなんでしょう?

ここで「利益」が出てきます。
「スポーツ」だと分かりやすいですが、要するに『相手がいる』ということなんですね。
「敵」と言い換えてもいいと思います。
その相手が「他国」なわけです。
だから、「自国」を応援することは自分にとっての「利益」であるわけです。
つまり、「他国」と「自国」の間の「利益の取り合い」ということですね。

日本人が勝って、『日本人が優秀だ!』ということに成れば、「自分」にもトクなことがあるんじゃないか?ということです。
反対に、「他国」が勝って「日本」が負ければ、『日本人が劣等民族だ』ということに成って、まわりまわってどこかで「自分」がソンをするんじゃないか?ということに成るわけです。

その点、「親族」とか「地域」と言う単位は「相手」を想定して使われることが少ないんですね。
だから、どうでもいい扱いに成っているわけです。

つまり、「家族」は「愛情や愛着」でつながっているし、もちろん「利益」でもつながっています。
「国」は「愛情」はなくとも「利益」でつながっています。
「親族」や「地域」にはどっちのつながりも薄いんですね。
だから、どうでもいいわけです。

 ※「地域」を「規模を少し小さくした国」と見るような考え方をした場合
  は、やはり「利益」が発生しますから、「ナショナリズム」に似た「同
  郷意識」が生まれるんでしょうね

ここのところを、少し間違えている人が多いと思うんですね。
『「国」を愛している』と思っている人ってけっこう居ると思うんですが、たぶん本質としては「見えない利益」を追求していると思います。

さっきも書いたように「国」って、その場その場で変わってしまうような単位なわけで、「地球外生命体」が現れた途端に『地球全体を愛するように成る』なんてことあるわけなくて、その方が『利益がある』ということなわけです。
じゃないと侵略されたりしますからね。
その場合は、「民族」も「宗教」も「法・秩序」や「政治的統治」なども全部無視して「地球」と言う単位の「国」が発生するわけですね。
たぶん、「相手」や「敵」が想定された瞬間に「地球国」が出来てしまうんだと思いますよ。
「管理機構」が出来て来るのは後からで、その前に意識としての「地球国」が多くの人の中に発生してしまうんだと思います。

まぁ、そんな感じで成り立ってしまう「国」ですから、「愛情」とは無関係なんじゃないかと思いますね。
つまり、「利益追求」も、地域の風俗や文化や自然などに対する「愛着」も、混ざった漠然とした概念としての「国」を愛していると思っているだけで、実は、その中で一番強いのは「利益追求」なんだと思います。

 ※たとえば、現時点で「地球愛」をうたっている人や団体は、ほとんどの場合「ナショ
  ナリズム」に否定的だと思います。
  むしろ『「国」を分け隔てるのはやめて、みんな一つの地球を愛しましょうよ』と言う
  方向だと思います。
  ところが、「地球外生命体」が現れたと仮定した場合には(まぁ、めったに現れない
  と思いますけど)、「ナショナリスト」の方が、こぞって「地球愛」を自分たちの合言
  葉にするような気がします。
  つまり、そこで「国」の単位がチェンジしたわけです。
  要するに、「自分が所属している集合体の最大の単位」が「国」から「地球」にチェ
  ンジしたわけで、それに合わせて合言葉も「国家愛」から「地球愛」にチェンジしたと
  いうことです。
  でも、「愛」の対象がそんなにコロコロ変わるはずはなくて、実際にチェンジしたのは
  「利益追求のための単位」なんだと思います。
  逆に、いま「地球愛」をうたっている人たちは、『宇宙人も愛しましょう』と言うんだと
  思いますよ(まぁ、意外と愛せないと思いますけどね)。

たとえば、故郷の「山」や「美しい海」に「愛着」を感じている人は居るでしょうが、それらは、「その山や海」に対する「愛」であって、「故郷」や「国」と言うものを愛しているのとは少し違うと思うわけです。

それに、その「山や海への愛」も「人間に対する愛」とは比べ物に成らないくらいに小さいと思いますよ。
故郷での人間関係や山や海などの自然に対する「愛着」をすべて「故郷(国)」と言う単位に代弁させてしまっているだけで、実は「故郷(国)」自体を愛しているわけではなく本当に愛しているのは、ほとんどの場合「人間」だけです。
「人間」はそういうふうにできていると思いますね。

 ※「故郷(国)への愛」が全く存在しないとは思いませんが、それよりも「利益追求」
  と言う面の方が圧倒的に大きいんじゃないでしょうか?

つまり「国」を愛することは人間にとってやや無理があることなんだと思うわけです。

自分の眼が及ぶ範囲なんて、せいぜい「向こう三軒両隣」くらいのもんでしょうから、「国」なんて大きすぎてとても知る由もないわけで、ましてや愛せるわけがありません。
そこにあるのは、「ごく小さな愛着」ぐらいのモノで、あとのほとんどが「利益追求」だと思うわけです。

まぁ、自分のことで言わしてもらいますと、要するに私は「利益」に対する興味が薄いんだと思います。
だから、「自国」が勝とうが負けようがほとんど気に成りません。

でも、情報があって選手のことを知るように成ると、「小さな愛情」が生まれる場合が出てきますから、その選手を応援したくなるわけです。
どこの国の人かは関係ありません。
と言っても、それもちょっとした気まぐれ程度で、「ナショナリスト」の人のような強力なモノではありません。
『いいんじゃない、この選手、こういう人が活躍すると嬉しいよね』
その程度です。

いずれにしても、「ナショナリズム」の本質と言うのは「愛国」ではないし、「体制の尊守」ですらなくて、「利益追求」なんだということが言いたいわけですね。
そうだとすれば、説明がつくことがたくさんありますし、そうでないとすると、説明がつかないことがたくさん出てきますから、まず間違いないんじゃないのかなと。

たとえば、経済的にだとしても軍事的にだとしても「他国」との間に争いが起きることを考えた場合、「国」を愛していることが前提だとすれば、「国土」や「国民」を含めた「国体」を犠牲にするような「戦争」などはあり得ませんが、それをやりたがるのはたいてい「ナショナリスト」側の人たちです。
なぜなら、彼らは「国の利益」を守ろうと(あるいは増やそうと)するからです。
「ナショナリズム」が「利益追求」だとすれば、当然ですが、「ナショナリズム」が「愛国」だとすれば「国」自体を犠牲にしてまで「国の利益」を守ろうとするのは、どう考えても矛盾しています。
やはり、彼らが「国土」や「国民」を賭けの対象にしてまで守ろうとするのは「国の利益」なんだと思います。

 ※ここにも「罠」があって、「民衆」は「国の利益」を守らないと、「国」が崩壊したり、占
  領されたりして、「国民」もソンをすると思ってしまうわけですが、今は、ごく一部の時
  代遅れな国を除いてどんな体制に管理されても「民衆」にとっての「ソン・トク」はあ
  まり変わりませんよね。違いますでしょうか?
  しかも、そういう時代遅れな国は戦争したとしても今はもう勝てません。


その人たちが愛しているのは「国」ではなく「国の利益」です。
(本当は「ソン・トク」を優先しているということ自体が、「愛」とは言えないですけどね)
そして、そこから『自分にも利益がまわりまわってやって来る』と思っているのが「ナショナリスト」なんだと思います。

まっ、そううまくいかない時も多いと思いますけどね。
昔なら、そううまくいったんだと思いますけど、もう無理ですよねぇ。
しかも、ずいぶん前から。

でしょ?

まぁ、「人のために働く人」っていうのは、美しいと思いますけど、「自分の利益に執着している人」っていうのは、美しくはないと思ってしまいますねぇ。
この場合、「国のために働く人」はどっちに入るんでしょうか?

少なくとも「利益タイプの人」がすごく多くて、「人のためタイプの人」は数の上ではすごく少ないのかなと。

「スポーツでニッポンを応援している人たち」が、半分でも「人のために働く人」だったら、もうちっと楽しい世の中に成ってるような気がするし。
でも、「スポーツでニッポンを応援している人たち」が、ほとんど「自分の利益に執着している人」だとしたら、すごく今の世の中が見えやすい気がする。

そんな風に思いますね。

 ※「スポーツ」が嫌いなわけじゃないです。
  「ニッポン」が嫌いなわけでもないです。
  ただ、「スポーツやニッポンに対する愛情」が、「国の利益」
  にすり替えられてしまうのを残念に思うわけです。
  しかも、その「国の利益」は、今はもう誰のためにも成らない
  意味のないものに成ってしまっていると思うわけですね。




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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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