FC2ブログ

「抽象」とは「表現できないモノを表現しようとすること」(つづき)



前の記事の続きです。

 
現在、「抽象」という言葉を既にワカッテイルモノとして使っていますが、実は「抽象」という言葉はまだまだ十分に把握されていないようなところがあって、「抽象」の捉え方は人によってかなりバラつきがあると思うわけです。
実際に、専門家でも「抽象」と「抽象化」や「抽象的」を区別しないで使っていることは多いですし、「抽象」について語っている時に、「その抽象」とは、「表現形式としての抽象」なのか、それとも「作者の意識としての抽象」なのかを区別して語っている人はほとんど居ないと思います。

と言うか、それらのことを全部厳密にやっていると話が非常にややこしく成って、一向に進まなくなってしまうでしょうから、その辺を適当にやり過ごして行かないと話が出来なくなるということもあると思います。

 ※ただ単に「抽象」と言う場合は「抽象」を概念として捉えているとい
  うことです。つまり、本来は「抽象の全体像」を語っているハズなん
  ですけど、そうでない場合にも、単に「抽象」と言ってしまうことが
  多いので、話が混乱するんだと思います。

  これに対して、「抽象化」と言った場合は「具象の範囲内」であって
  も「抽象」が何らかの形で取り入れられていることを指しているわけ
  です。これは主に「具象」において使われる言葉だと思います。まぁ
  「抽象」を「抽象化」する必要なんてありませんから。
  つまり、「抽象化」と言う場合は、「具象」のことを言っていること
  が、ほとんどだということですね。この辺からも誤解が生まれやすい
  ですよね。

  また、「抽象的」と言った場合は、「方向性としての抽象」について
  言っているわけで、たとえば鑑賞者の視点においても「抽象的な見方」
  もあるということに成ります。つまり、「具象を抽象的に見ること」
  もできますし、逆に「抽象を具象的に見ること」も可能ではあるわけ
  です。また、創作者の立場から言えば、どういう表現形態をとった場
  合でも「抽象的な方向性を取り入れること」は出来ますし、「具象的
  な方向性を取り入れること」もできるということに成るわけです。

  まぁ、こんなの全部キッチリ分けていたら話ができませんよね。そう
  いうことで、これらのことが、全部テキトーに語られているわけです
  から、混乱や誤解が生まれるのも当然だと思います。

まぁ、要するに「抽象」という言葉が曖昧な状態のまま百年ほど過ぎてしまったわけで、その間にかなりさまざまな『抽象とは~』が出てきてしまいましたし、「抽象」についての間違った考え方が一般化してしまった例もたくさんあったわけですから、現時点で方向性が定まっていないのは当然だと思います。
問題は、これから先もこの状態を続けていくのか?ということです。

とにもかくにも、「抽象」と言う概念を明確なモノにして行かないと、「芸術全体」が行き詰まりから抜け出せないと思います。
これについては、「人ソレゾレ」とか「自分が解ってりゃいい」じゃダメだと思いますね。


さて、そういう「メンドクサイ抽象」をどうして敢えて選択するのか?という話です。

「芸術の20世紀」に起きたさまざまな出来事のなかで、常に中心的な位置にあったのは「抽象」と言う考え方だったような気がします。
ほぼ全てのことが「抽象」と結び付けられて考えられて来たと言ってもいいんじゃないでしょうか?
つまり、それだけ重要なアイテムであったわけですよね。
それなのに、「抽象」は何らかの形で『完成した』と言える状態に成っていないように思うわけです。

 ※ここでは、「完成」と言っても「完璧」を指す意味ではなく、たとえ、些細な
  ことであっても、それを作者本人がある程度まで納得できるような「形」と
  して提示することができた作品を指して「完成」ということにいたします。

まぁ、敢えて「ムズカシイこと」にチャレンジしたということでしょうから、そう簡単にはいかないんだと思います。
それはそれで仕方ないことだと思いますし、必ずしも完全な「完成形」を目標にする必要はないのかも知れません。
でも、そういう、まだ始まってもいないのかも知れない状態の「抽象」をある程度の「完成形」であるとしてしまっていることに問題があると言いたいわけです。

実際には、「抽象」はまだまだ未開拓の領域をたくさん残していると思いますよ。
要するに、「いま」が「堀り時」なんだと思うわけです。

ただし、これは、もしも「芸術の20世紀」に行われたありとあらゆる「実験」が、すべて「実験段階」で放棄されたと考えた場合ですけどね。

私は、そう思いますので、だから「いま」こそ「抽象」なんだと思うわけなのです。

ところが、現実には、このところ「抽象」が捨てられつつあるような気もするわけです。
たぶん『諦められた』ということなんだと思います。
早い話が、『いろいろやってみたけど「抽象」は意外と表現力に乏しいかな?』と言うことじゃないでしょうか?
(このことこそ、まさに「抽象」が「完成形」を提示できていなかったということなんじゃないかと思いますね)

しかし、それは「抽象表現」を非常に限定した捉え方で捉えてしまったことによると思うわけです。
そこでも、前述の「抽象」の概念が明確でないことが影響していると思うんですが、「抽象」に対する思い入れが強い人ほど、その曖昧さを解消しようとして「抽象」を難しく考えますし、「抽象」を狭くとらえる傾向があるわけです。
だから、どうしても「抽象」を理解している人ほど「抽象」を狭い範囲に限定してしまうわけです。

あまりにも狭い範囲に限定してしまいますから、「純粋性」は高いのかも知れませんが、「表現の幅」が極端に狭く成って、どんどん「表現力」を弱くしていってしまったんだと思います。

 ※例を挙げれば、「一つの色で大画面を塗りつぶしてある絵
  (まぁ、一本だけ線が引いてあったりはします)」みたい
  なのがありますよけど、そういうのが「むずかしく考えす
  ぎて表現の幅を狭くしてしまった作品」なんだと思います。
  そういうのは、極端な例ですが、実は「抽象表現」を厳密
  に捉えていくと、多かれ少なかれこういう「罠」に陥って
  しまうんだと思います。
  現在「抽象」だと言われたり思われたりしている作品のほ
  とんどは、多かれ少なかれこの「罠」に囚われて居ると思
  いますね。

それが『「抽象」はワカラナイ』ということにもつながっていますし、「抽象」が結果的に「デザイン化」して行った原因でもあると思います。

「デザイン」がワルイなんてことではありませんが、「デザイン」には「デザインの領域」がありますし、「タブロ―」には「タブローの領域」があるわけで、「タブローであるはずのモノ」が「デザインの領域」を犯してまで「デザイン化」する必然性はないと思いますね。
もともと、「デザイン」というのは、モノを単純化して分かりやすくするために徹したものであって(だから、「わかりにくくなってしまった抽象」が「わかりやすさ」を求めてデザイン化したんだと思います)、「タブロ―としての絵」が目指すところとは根本的に違う所を目的としているわけですから。


いずれにしても、「抽象」が曖昧に捉えられ続けたことと、極端に狭く限定して捉えられ続けたことが、「抽象表現」がチカラを失った原因だと思うわけです。
つまり、その逆に「抽象」を明確に且つ広くとらえられれば、「抽象表現の力」を取り戻すことが出来るんじゃないのかなと。
そんな風に思っているわけです。

なぜ、そこまでして「抽象」なのか?
と言われれば、『まだ、誰も出来ていないから』ということです。
そして、先ほども言ったように「空き領域」がたくさんあるんですねぇ。
見ようによってはですけどね。

それから、あとは「チャレンジ」ですね。
「現在の芸術」に与えられている役割の一つは「チャレンジすること」だと思いますから、少しでも「ムズカシイ方」を選択するべきなのかなと。
そんな風にも思うわけです。

「芸術」が「チャレンジする姿勢を示し続けること」こそが、「いま最も芸術であること」つまりは「芸術の中心にあること」なんじゃないのかなと。
そして、それには「不可能なモノ」であること、すなわち「表現できないモノを表現しようとすること」が最適なのではないですかと。
ハッキリ言ってしまえば、「達成」や「完成」を捨ててもこの「不可能性」を選択する必要が出てきているんじゃないのかなと。


そういう風に思っているわけなのです。



 ※この「不可能を選択するという行為」は一見すると不毛な行為にも
  思えるんですが、実を言うと「永遠に終わらない芸術」という「半
  永久的なスタイル」と成り得る可能性を持っていると思います。
  これは、「完成」していない「抽象」を「完成」であるとしてしま
  っている現在の状態とは正反対のことで、「完成」を目標とするん
  ではなく、「挑戦」を目標とするということです。

  なんたって「不可能」ですから、誰がやっても出来ませんし、どん
  なふうにやってもできません。 
  だから、「永遠に終わらない芸術」と成り得るわけです。
  永遠に「完成形」を提示することは出来ませんが、「完成」はすで
  に目標ではなくなっていますから、もうその時点では問題ではあり
  ません。
  このスタイルの中で、いろいろな人が「それぞれの自分」を提示す
  ることが出来れば、それが「抽象としての完成形」に成ることはな
  くても、「その人の表現としての完成形」には成り得るわけで、その
  連続が「半永久的なスタイル」と成ることもあり得るということですね。
  




関連記事

管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

QRコード

QR