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「芸術」は「日常空間」に持ち込まれたときに本当の意味がわかる



『芸術は美術館で見るもの』というのが、今は一般的な考え方なんじゃないかと思いますけど、今後は『芸術は生活空間で見るもの』、もう少し詳しく言うと『芸術は日常の中に非日常空間を創り出すもの』という考え方が重要になっていくんじゃないかと思っているわけです。

今は「見る人」が美術館などの「非日常空間」に移動して「芸術」を鑑賞しているわけですが、その移動の方向を反転させて「芸術」を「見る人の日常」に持ち込むことで「見る人の日常」の中に「非日常空間」を創り出すことが出来れば、「芸術」が人間にとって一定の価値を提供することが出来るように成るだろうと思うわけです。

 ※「芸術」にとっては、「価値」よりも「意味」が重要だと思います。
  言い換えれば、「役に立つこと」ではなく「純粋さを追求すること」
  が「芸術」の本来の姿だと思うわけですが、それでも、「価値」だっ
  てあったほうがイイには違いないわけです。
  つまり、人間にとって実質的に役立つ「価値」ですね。
  「芸術」がそういうモノを追求するために「芸術としての純粋性」を
  失ってしまうことは本末転倒だと思いますが、「芸術」が「芸術」の
  範囲内で「人間」に貢献しようと考えることには、「価値」があると
  思いますし、それは、「芸術の意味」でもあると思います。

  まぁ、早い話が、「結果的に発生する価値」はあった方がいいという
  ことだと思います。

現在の日本では、一般庶民の住宅で、『芸術だな』と思うようなモノを置いている家って少ないと思うわけですねぇ。
まぁ、複製品とか「インテリア・デザインや工芸品としての芸術」ということではなくて、「一点物の個人作品」であって、しかも『これは純粋な意味での芸術を追求して作りました』というような、いわゆる「ホンモノ」っていうことですけどね。

 ※有名・無名・とは関係ありませんし、もちろん値段とも関係ありません。
  自分で創作したモノや、友人や知人が創作したモノなんかも含まれると
  いうことで考えたとしても、そういうものが飾られている家ってあんま
  り見ないですよねぇ。
  これ、ちょっと寂しい気がするんですが、どうなんでしょうね?

こういう話で、『ヨーロッパなどの住宅では「芸術」が生活の中に溶け込んでいる』ということを聞いたりもしますが、それとは少し違う話だと思います。
確かに、日本の住宅に比べると、そういう国の住宅に絵がかけられていたりすることは多いという話を聞きますが、おそらくそれは「インテリアの一環として飾られている絵」であって、今ここで言うような『芸術を日常空間に持ち込んで、そこに非日常空間を創り出す』という意味ではないと思うわけです。

だから、これは日本の住宅事情とはほとんど関係が無い話ですし、また、日本人の「インテリア感覚」や「生活空間の演出に関する意識」の話でもなくて、もう少し根本的な意味での「芸術鑑賞に対する姿勢」についての話です。
つまり、「現在、芸術が置かれている位置」と「現在、人間が立っている位置」の間で、『どういう「芸術鑑賞」を模索していこうか?』というような話であります。
まぁ、「現在における芸術鑑賞のスタイルについての提案」みたいなものだと思っていただければいいんじゃないでしょうか。

さて、なんで「日常空間」に「芸術」を持ち込むことが「芸術の価値」に成るのかということなんですが、それは「現代社会」がある種のユガミを抱えていることや、そのことから「現代人」が常に「ストレス」を感じて生活せざるを得ない状況にあるということと深く関係しています。

 ※ここで言う「ストレス」とは、単なる「負荷」ではなく、『どっちに行って
  も逃れられない閉塞感』のようなものです。
  主にダブル・スタンダードやダブル・バインドによって産み出される
  「精神的な閉塞感」を指しています。
  要するに、「現代人」はいつも何かと何かの間で挟まれていたり、引
  き裂かれていたりして、片方に近づけば片方からは遠ざかってしまう
  という、ジレンマの中で生活しているということですね。

  このことこそが、「芸術」が20世紀に入った頃から大きく変貌したこと
  の、ひとつの原因でもあるんだと思います。

「現代人」が「ストレス」を感じて生きているということに異論がある人はそう沢山は居ないと思いますが、その「ストレス」を『昔からあったんじゃないの?』と思っている人はけっこう居るんじゃないかと思います。

もちろん、いつの時代にも、何らかの「ストレス」があったのは間違いないと思いますが、「現代のストレス」は「現代特有のモノ」だと思うわけです。
それは、「精神的なストレス」ということですね。
「ストレス」自体が精神的なものなんでしょうが、「現代のストレス」は「精神と精神の摩擦が生み出すストレス」だと思うわけです。

昔は、主に「肉体的な負担」を、人間が「重荷」と感じたときに「ストレス」が発生していたわけですが、現在は「肉体的な負担」が全くない場合にも「ストレス」が発生するようになっていて、しかも、その「精神的なストレス」が「肉体的な負担」よりもはるかに大きくなっているわけです。

ちょっと前の時代(50~60年前くらい?)までは、その「精神的なストレス」も「肉体的な負担」とだいたい同じくらいの大きさだったような気がしますが、この半世紀ほどの間に、社会が生み出す「精神的なストレス」は膨張し続けて、今に至って、それが「人間の限界点」」を超えてしまったという感じがあるわけです。
(100年以上前は、「ストレス」は、けっこう単純なものだったと思いますね)

とは言え、そういう中でも生きていかねばなりませんから、「ストレス社会」の中で「人間」は常にフラストレーションを抱えて生きていくことに成るわけで、当然、その「はけ口」を求めているわけです。

まぁ、悲しいことではありますが、こう言うことから、その「はけ口」として「イジメ」や「虐待」や「~ハラスメント」などの現象が起きてくるわけで、オオモトのフラストレーションが緩和されない状況のまま「はけ口」だけを何とかしようとしても、なんの効果もないと思うわけですねぇ。

なかなか、「現代のフラストレーション」そのものを緩和するのは難しいでしょうが、せめて、「イジメ」や「虐待」のような最悪の選択だけでも逃れられないだろうか?と考えるわけです。
そこで、その「はけ口」の代わりに成り得るのが、「幻想の日常化」だと思っているわけです。

もともと、「リクリエーション」とはこういう目的のものだと思うんですけど、「リゾート」や「リクリエーション」の場合は「人間が非日常空間に行くこと」や「人間が日常の中に楽しみを見つけること」を意味するところが大きいと思います。
つまり、「日常空間を離れることや、忘れること」に意味があるんだと思います。

しかし、「現代人」は常に「フラストレーション」を抱えていますし、その元をたどって行けば「逃れようのないストレス」という「絶対的な闇」があるわけですから、「日常空間を離れること」ぐらいで「日常を忘れること」なんてとてもできませんし、「ときどき行くリゾート」などでは、一年中いつも付きまとっている「フラストレーション」を解消することは出来ないわけです。
それに、そういった「リクリエーション」にも「おカネ」や「手間」がかかってしまうので、また、そこでも「ストレス」を感じてしまうわけですねぇ。
まぁ、それだから「逃れようのないストレス」なわけですけどね。

そこで、「幻想の日常化」が必要に成ってくるわけですねぇ。

という所で、前置きが長すぎて、本題に入る前に力尽きてしまったので、次の記事に続けます。




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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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