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「抽象」とは「表現できないモノを表現しようとすること」



「抽象」と言うモノを、「具象を崩していくもの」と考えている人や、「形を使わない表現形式」と考えている人が多いような気がするんですけど、そういう「形式としての抽象」と「もう少し根本的な意味での抽象」と言うのがあると思うわけです。

まず、「形式としての抽象」についてなんですが、「具象を崩すこと」は「具象」の中での「アンチ・リアリズム」ではあっても、やはりあくまで「具象」なんだと思います。
また、「形を使わずに何かを表現すること」は不可能ですから、それを「抽象表現」ということには意味がありません。
まして、「具体性」を一切使ってはいけないんだとしたら、「表現」以前に何もできなくなっちゃいますよね。

でも、そうなると「抽象」と言えるモノが存在しなくなってしまうわけです。

要するに、「具象」との対比として「抽象」を考えることに無理があるわけで、「抽象」は「具象」とは無関係に「抽象」なんだと思います。
つまり、「抽象」と言うのは、「モノの外見的な姿にとらわれずに、そのものの本質を抽出する作業」のことなんだと思うわけです。
ただ、そこのところが、難しすぎて理解しにくいし、実際の「芸術表現」として作品にするのが難しいんだと思います。

そこで、「形式」の話は置いといて、「根本的な意味での抽象」とは、どういうものなのかと言うことになるわけです。
それは、実際に人間が五感で捉えることが出来る「現実」以上に、「本質」や「真実」に近づこうとする「意識」なんだと思います。
そういう「意識の方向性」ですね。
こちらが「抽象の根本的な意味」だと思うわけです。

これは、達成することが出来ないとしても「意識」としては存在しているということに成るわけです。

たとえば、外見的な形を使っても「その内側にある本質」を表現することが可能だと思う人は「具象的な表現」を使うわけですし、外見は「本質」を現すのにはむしろジャマだと思う人は、「抽象的」に成らざるを得ないわけですが、それはあくまで「形式」の問題であって、そういう「本質に近づこうとする意識」がありさえすれば、方向的には「抽象」であるといって差し支えないと思います。

つまり、「具象表現」を使った「抽象」もあるし、「抽象表現」を使った「抽象」もあるということですね。
(具体的に言えば、「花」を描いていても「現実の花とは違うナニカ」を現そうとして描かれた絵は、ここで言う「具象表現を使った抽象」ということに成ります)

逆に言うと、「現実以上の本質」を抽出しようという意識がないものは、表現形式が「具象」であっても「抽象」であっても根本的な意味では「抽象」ではないということです。
(こちらを具体的に言うと、「完全に写実のみに徹したモノ」は「具象表現」を使った「具象」ということになりますし、現実のモノの形を使わずに「非現実的なナニカ」を描いていたとしても、そこに「真実や本質を抽出して現そうという意識」が無い場合は、単なる「形式的な意味での抽象」であって、「根本的な意味での抽象」ではないということに成ってしまうわけですね。たとえば、三角や丸のような図形を意味なく描いた場合「形式的な意味での抽象」ではあっても、「根本的な意味での抽象」とは言えないと思います。)

ただ、そこで「本質」とか「真実」と言っているモノが到底現しきれるようなものではないということがあるわけです。
つまり、「抽象」と言うのは「表現できないモノを表現しようとすること」に成るわけですから、限りなく「達成率が0」に近く成ってしまうということです。
そこのところで、「表現形式」として「具象」を使った場合は、「具象」の持っている「現実性」が、「最低限の表現」を保証してくれるわけですが、「抽象」の場合はその「保証」が無いわけですね。

つまり、完全に拠り所のない状態で、さらに「現せないモノ」を現そうとするわけですから無理があるわけで、当然、うまく表現できていない作品に成る確率が高いわけです。
それで、『抽象はわからない』と言われることが多く成るんだと思います。

でも、そこのところをゴマカシテきたように思うわけです。

『「抽象」は「ワカル人」と「ワカラナイ人」が居るんだ』とか『「抽象」がワカラナイ人は固定観念に囚われているんだ』とか『「抽象」がワカラナイなら「具象」を見たって本当のところはわかってないんだ』と言うように、全部「見る側の人」のせいにしてきたように思うわけですね。

でも、「表現できないモノを表現しようとすること」が「抽象」なんだとすれば、見た人がワカラナイのも、創作した人が、ワカルようなモノを創れないのも、両方ともアタリマエなわけで、ゴマカス必要も意地になって否定しようとする必要も、初めから無かったんだと思います。

『表現できないモノを表現しようとしたんですが、出来ませんでした』と言えばよかったし、『いろいろ考えながら見たんですけど、どうしても理解できませんでした』と言えばよかったんだと思います。


ここでも、よく言われることで『理解しようとするからダメなのヨ、感性で捉えればいいわけヨ』と言う常套句がありますよね。
これもゴマカシだと思いますね。
理解してはいけないなんてことがあるはずがありませんし、感性で捉えたうえで理解できるに越したことはありませんからね。


それに、どちらかと言うと「理解」を求めているのは「創作者」の側だと思いますよ。
敢えて、謎をかけるような作品を提示しておいて、『考えるな』とか『理解しようとするんじゃなくて』とかと言う「罠」を仕掛けるのは「芸術」としては、あまりいいやり方ではないんじゃないでしょうか?
もし、作者が本当に考えてほしくないなら、「考えないでみられる作品」を作るべきだと思います。
少なくとも、「具象」に対して「ワカラナイ」と言う人はほとんどいないわけですから、それだったら「具象」をやるべきでしょ?

敢えて「抽象表現」を使うのは、どこかで『考えて理解してほしい』と思っているからでもあり、また、だからこそ「理解されないこと」にいらだって、すべてのことを見る側の人のせいにしようとするんだと思います。
(まぁ、「見る側の人」でも、すべてのことを「創作者」のせいにしている人も居ますけどね)

いずれにしても、「抽象芸術」に関しては、このような複雑に張り巡らされた「罠」がたくさんあって、とてもストレートに創作したり鑑賞したりできない状態に成ってしまっているわけです。

私の場合はその「罠」を一気にまとめて断ち切りたかったので、「芸術の20世紀・喪失」と言う考え方をしているわけなんですけどね。

それはともかくとして、『そんなにややっこしいことに成っているなら「抽象」は使わなければいいじゃないか?』ということも考えるわけですが、それがそうもいかないんですねぇ。

少なくとも19世紀末の時点で「アカデミックな芸術表現」は一度行き詰っていることは確かなことだと思います。
その「アカデミズム」とは、要するに「具象表現」に代表されるような「リアリズム」であるわけです。

一言で言えば、「やりつくされた」ということだと思います。
まぁ、『一つの完成形を見た』と言う感じでしょうね。
要するに、もう「余地」が残っていないわけです。
だから、同じことを焼き直したり、繰り返したりするしかないということですね。

確かに、「具象」をさらに掘り続けることも出来るでしょうし、掘り下げて行けば、また、少しは違う局面を創り出すことも可能だとは思います。
だから、「具象」はもうダメなんだと言うつもりはありませんし、現実に「具象表現」でいい作品を創っている人は沢山いると思います。
と言うより、「抽象」より多いでしょう。
(やはり、「具象表現」には「現実」と言う最低限の保証があるので堅実なんですね)

それでも、やっぱり「抽象」をやるのは、『まだ誰も出来ていないから』なんだと思います。

「抽象芸術」の作品でも「歴史的名作」と言われるモノも既にたくさんありますし、それがある種の「完成形」であるとすら思われている作品もあると言ってもいいのかもしれません。

しかし、私にはそういう作品がとても「完成形」だとは思えないんですねぇ。
それどころか、「抽象表現」と言うモノ自体が、まだスタートすらしていないと思っているわけです。

実際、20世紀の中ごろまでだったら、「キュビズム」のような「アンチ・リアリズムの具象表現」(これが「具象表現を使った抽象」の代表例ですね)と「抽象表現」(これは「現実のモノの形を使わない表現形態」ということですね)とすら区別されていなかったと思いますし、その点では専門家であっても、たいした違いは無かったんじゃないでしょうか?
それが、徐々に「抽象」という言葉の意味が明確に成って来つつあるというぐらいの状態だと思います。
実際、今でも「抽象」という言葉の捉え方は「人ソレゾレ」と言うのが現実でしょうし、これもまた、専門家にも言えることだと思います。

『「抽象」とはナニなのか?』がわかってもいない状態でヤミクモにやってきたわけですから、その中から「完成形」が生まれるとは到底思えませんし、実際に生まれていないと思うわけですねぇ。
これは、むしろ当たり前だと思いますけど、どうなんでしょう?

長く成ってしまったので、次の記事で「それでも抽象を使う理由」についてもう少し具体的に書こうと思います。



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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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