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「芸術」は「日常空間」に持ち込まれたときに本当の意味がわかる(つづき)



前の記事の続きです。


「幻想」を「日常空間」に持ち込むことで、そこに「非日常空間」を創り出すことが出来れば、「現代人」が抱えているフラストレーションを少しは解消することが出来るんじゃないだろうか?ということですね。
(注:少しです)


昔から「芸術」が持っていた役割の一つは「人の心を癒すこと」だったと思いますが、現在、この役割が「芸術」に担えるでしょうか?
つまり、「現代ストレス社会の中で疲れた心」を「芸術」で癒すことが出来ると思いますか?ということですね。
『出来ますよ、余裕で』と言える人がどのくらいいるのかはわかりませんが、少なくとも、そう言える人というのは、よほど楽天的な人か庶民の中でも「やや上の立場」にある人じゃないかと思いますね。

そういう、「ストレス少なめの人」以外の一般庶民で、「それでも芸術で癒されたい一心で美術館に通う人たち」は、本当に癒されているでしょうか?

やっぱり普通の庶民の人たちは、「現代社会」の中で、かなりの「ストレス」を感じて生きているわけで、しかも、けっこう真面目に生きている人ほど、「社会」に適応しようとしますから、「社会のヒズミ」の影響をもろに受けてしまうわけで、当然、強いフラストレーションを抱えているわけです。

要するに、『こんな状況の下でも、「芸術」が人の心を癒すことが出来るのか?』ということです。

私は無理だと思いますね。
というか、そういう「逃げ場のないストレス」の中に居るような人に『まぁ、美術館にでも行ってみれば?きっと心が癒されるよ』というのは、むしろ残酷だと思ってしまいます。
つまり、「芸術」なんか見ている余裕が無いということですね。
現在の社会状況というのは、こういうことが決してオーバーではないと思うわけです。
じゃなきゃ、こんなにたくさん自殺者が出ていないと思いますよ。
しかも、こんな、食べるのに困らないような時代なのに。

確かに、そういう状況でも「芸術」に救われている人は居ると思いますが、そう言う人が少しづつ少なく成っているのも間違いないことのように思うわけですね。

なにが言いたいかというと、昔と今とでは「芸術」が担う役割のスタイルを変えなければならないんじゃないか?ということなんです。
まぁ、一言で言って、昔のスタイルじゃ役に立たないと思う人が多くなったということだと思います。

「アカデミズムの行き詰まり」と同時に、この「芸術の役割の変化」があったことで、「芸術の20世紀」において「芸術」が大きく変貌することに成ったんだと思います。

昔は、「きれいな花」や「美しい風景」、あるいは「神話的な題材の絵」を描いていれば、それを見た人の心が癒されていたわけですが、近代から現代にかけて、「ストレス」が増大するのと同調して、「芸術」も変貌していったのは、「強いストレス」を感じた人たちが、そういった昔のスタイルでは心を癒されなくなったということが一つの原因だと思うわけです。

「昔の癒し」とは、要するに「たのしみ」だったんだと思います。
言い換えれば「エンターテイメント」ですね。
昔は「エンターテイメント」が少なかったんでしょうから、「芸術」はその中心の一つだったんだと思います。

でも、現在は「エンターテイメント性」では「純粋な芸術」を上回るモノもたくさんあるわけで、敢えて「純粋な芸術」で「たのしみ」を追求する必要性は薄いんじゃないでしょうか? 
「純粋な芸術」は「たのしみ」を創り出すのには、そんなには向いていないんだと思います。

ところで、「純粋な芸術」は、ナニに向いているんだ?ということです。
たとえば、「幻想であること」ですね。
これは「純粋な芸術」に向いているんじゃないかと思うわけです。
もちろん、他の言葉で言い換えてもいいと思います。
たとえば、「異世界」でもいいわけですし、「感動」や「夢」と言ってもいいと思いますよ。
なんでも自分の好きな言葉を当てはめて考えることは出来るわけですね。

つまり、「現実ではないナニカ」ということなんだと思います。
そして、「自分が最も惹きつけられるナニカ」ということですね。
そういう「心を魅了するものであること」が「芸術」に向いていることなんだと思うわけです。

そして、そういうものを「日常空間」に持ち込むことで、「日常」の中に「非日常空間」を創り出すことが出来れば、「現代ストレス社会」における「癒し」と成り得るんじゃないかと思っているわけです。

つまり、「エンターテイメント」が「即効性の癒し」であるのに対して、「幻想の日常化」は「根本的な癒し」に成る可能性があると思うわけです。
「純粋な芸術」には根源的で普遍的な性質がありますから、「エンターテイメント」では物足りない人に対しての「癒し」に成り得ると思うわけですね。

なぜ、「非日常空間」に行って見るのではダメなのか?と言えば、『めんどくさいから』です。
「やられちゃってる人」は「めんどくさいこと」はもうできないんですね。
それに、もしも、少し無理して行ったとしても気持ちにゆとりがありませんから、『あぁ、いいよね』ぐらいで終わってしまうわけです。
それじゃ、「癒し」に成らないでしょうね。
それから、次に行くまで持ちません。
「ストレス」は常に付きまとっていますから、次にそういう場所に行くまで持たないんですね。
だから、いつどこに居ても「幻想」があるのが一番いいわけです。

でも、それが完全に「日常」になってしまうと意味が無くなってしまいますから、「日常」の中に「非日常」を創り出すことが必要に成ってくるというわけです。

その為に、「幻想であること」が必要に成るわけですね。


『現実を忘れさせてくれる』だけじゃなくて、『現実を圧倒する』ような世界が「日常空間」の中に造り出せれば、きっと「現実の中で起きている矛盾や不条理」に対して、『むしろ、そっちこそ「無意味な世界」であって、自分にとって本当に意味があるのは、こっちの「幻想の世界」なんじゃないのか?』という風に思えるかもしれません。
(これは、かつて「宗教」が担っていた役割ともリンクしていると思います)

というか、実際に「芸術が創り出す幻想」は「現実」よりも「真実」に近い可能性があるわけで、そうだとすれば、これは「虚構への逃避」ではなく、むしろ「真実への回帰」であるわけですから、本当の意味での「癒し」と成り得るんではないのかなと。

つまり、「現代社会」の持っている「人間性軽視」や「効率重視」や「拝金主義」などの性質は、実際にはだれにとっても無意味なモノで、実を言えば、誰も幸せになれない「虚構の論理」であるということがかなりはっきりしてきているわけですから、そちらが「虚構の世界」であると言っても、もうそろそろいいような気がするわけですね。

そして、そういう「虚構の世界」の「裏」という意味での「幻想の世界」を心の中に持っていることが「その人にとっての真実」を取り戻すことに成るかも知れないということです。

また、それだからこそ、「芸術」は少し無理をしてでも「真実」を追求する必要があるんではないのかなと。
「真実」に到達できることは無いにしても、そこへ向かう姿勢だけでも示すことが、「現在の芸術の責任」であるのかなと。

そういう風に思っているわけなんです。



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