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【民主主義=多数決】 と言う公式は、もう考え直した方がいいのでは?



現在までの民主主義の歴史においては、常に『多数決で決める』と言うことが大原則であったわけですけれど、これは、もう成り立っていないことが、はっきりして来ているんじゃないのかなと思うのです。


多数決と言っていますけど、実際に多数決をとることが全くできていないわけで、実態としては、今行われている政治がどれだけの人に支持されたものであるのかは、もう誰にもわからないものになってしまっていると思いますね。

それでも、そのシステムに頼り切っているために、「多数決」と「民意」はどんどん乖離していく一方なわけです。

だから、何か代替案を導き出さなければいけないと思うわけです。
それをすることが、いま政治にできる数少ないことではないでのでしょうか?

政治家や学者が寄り集まって、一生懸命考えれば、きっと?、何らかの策が浮かんでくるのではないかと思います。
正直言えば、それらの策にはほとんど期待が持てないわけですけれど、それを考えることや実行してみることで、現行の民主主義と言われているものが、如何に民意からかけ離れたものであるのかが、洗い出されて来れば、どこが問題なのかぐらいはわかってくるんじゃないでしょうか?

そして、そこからどう対処するのかが本題なわけです。

その具体策については、私などが考え付くようなものではないでしょうが、私がいま思いつくことは、「投票の義務」と「投票の匿名性」を両立させなければ【多数決=民主主義】も成り立たないということなのです。

「全員投票」を強制的に行おうとすれば、結果的に「匿名性」が失われてしまうでしょうから、「政治的な意思の表明」を個人に対して強要することに成ってしまいます。

 ※強制であるということは、投票が実行されたことが確認できなければ意味がない
  ので全員が投票したことが確認できるようなシステムが必要に成るでしょう。
  おそらく、そこから「匿名性」が崩れていってしまうように思います。

でも、「多数決」は基本的に全員が投票することを前提に成り立っている制度なわけですから、全ての人が投票しなければ、「多数決」でも、なんでもないわけで、そこを何とかしなければ、「民主主義」とは名ばかりで実体は無いも同然なわけですね。

そう考えた場合、「民主主義」は立ち上げられたまま、まだ実行に移されていなかったとも言えるのではないでしょうか?


そこで、思い当たるのは「裁判員制度」や「陪審員制度」のようなものです。
もしかすると、人数を限定して、形だけに成っている「全員投票」を捨てれば、「投票の義務」と「投票の匿名性」を両立できるのではないのかなと。

 ※こちらも「匿名性」については、完全には確保できないかも知れませんが、
  少なくとも「投票の義務」については、ほぼ確保されるでしょうし、確実に 
  限られた人数の中での「全員投票」だけは確保できます。

とまぁ、そんなことも考えるわけですが、もしかすると、今の状態が、国を動かしている人たちにとって、結構都合がいいのかもしれませんよね。

だとしたら、『変わるわけないじゃん』ですよね。

そして、これが一番濃厚な説なのかも知れません。





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98:
※97
Takeoさん、コメント入れてもらって本当にうれしいですよ!
なにせ4年ぶりだし、今、緊張してキーを打つ手が震えてます(いや、嘘じゃなくて)。
しかも、『このブログ、面白いですね』は、はじめて言われたと思います。
今、こころの中がバラ色ですよ。

さて、私は一度も投票に行ったことないんですよね。
これを言うと怒る人も居ますけど、私に言わしてもらいますと、今の政治に迷わずに一票を投じることが出来ることの方がイカレテると思いますよ。

私は、日本だけのこととも思わないんですよね。
どんな国でも、どんな集団においても、現在における最先端が「多数決による民主主義」であるわけで、その「主義」から脱しない限り、本当の意味の「平等」や「自由」はあり得ないと思っているわけですね。

※完全にフラットな社会というのは実現不可能だと思いますけど、「いま」を変えることは可能です。
それは「革命」などの「歴史」が証明しています。
というよりも、「変わらずにいること」というのは絶対に不可能ですから、ただ単に「どう変わるか?」の問題なわけで、どうせだったら、「人間」に都合よく変えた方が少しマシな気がしますね。
「自然界全体」からすれば、「人間のエゴ」に過ぎないのかも知れませんが、人間には「自分のエゴを素直に受け入れること」ぐらいしかできないと思うわけですね。

それから、「経済」においても「カネ」を基盤に置いた「経済」では、もうまわらなくなっていくと思っています。
あとは「法律」ですね。
「法」も何らかの形で変えていかないとまわらなくなっていくんじゃないですか?

これらのことは「理想の通貨:妄想です」という記事や「脱ホウリツ・脱マネー」、「刑罰について」などの記事で書いています。

以上のような話の中の「まわらなくなってきている部分」を反映して世の中に出現しているのがTakeoさんのような人だと、私は思っているわけです。
Takeoさんは非常に繊細な方だと思いますから、こんなにも矛盾を抱えた社会で「生きづらさ」を感じておられるのは当然のことだと思います。
私は、もう少し図太くできていて、「生きづらさ」を感じていながらも「困難」は感じてません。
Takeoさんも、その辺の所が他の「ヒキコモリ」の方たちとはかなり違っていて、あまりにも繊細なために打ちひしがれていながらも、どこか確固たる自信に満ちている印象がありますよね。
そういう方が「坑道のカナリア」と成って、少しづつ変化の方向が修正されて行きます。

※「坑道のカナリア」は昔の炭鉱で危険なガスの発生をいち早く感知するために、非常に敏感でガスなどの影響を受けやすいカナリアを持ち込んで安全の確認をしていたことからの例えです。

私は、このブログの中で、『「天才の時代」や「神の時代」はかなり前に終わってますよぉ』と言っているんですけど、それは「政治」や「経済」においても言えることで、「優れた指導者」や「スバラシイ学者」ではもうダメだと思うわけです。
だから、どんなに素晴らしい人が立候補したとしても投票に行くつもりは無いんですねぇ。

どんなに優れた人でも、出来ることは知れてます。
「人間」という生き物が、そういう「個人的な能力」を超えて行こうとしているわけですね。
でも、それはあくまで「人間が設定した人間という偶像」の話で、「事実上の人間」は、まだ「その理想の人間」にゼンゼンとどいていません。
だから「個人の能力」を頼りにしていると、「デタラメ」なことばかりするように成るわけです。
つまり、「個人の能力」ではなく「個人そのもの」を重要視していく世の中を作らなければならなくなってきているんだと思います。

※この辺の所は「人間はまだ人間未満」と言うキーワードで記事を書いています。

長くなりますので、この辺にしときますが、いずれにしても、私は自分がこんなことを考えていることだけで、十分に世の中に貢献していると思っていて(図太いんで)、それはTakeoさんや他の「ヒキコモリさん」たちも同じだと思っているんですよね。
つまりは、私にとっての「個人を重要視すること」とはそう言うことだということですね。

では、また。



97:
再び。

わたしはほとんど投票に行ったことはありません。
投票に価する政党、候補者がいないからです。

少数意見をいかに生活に反映させるかが民主主義の要諦だと思います。
身も蓋もなくいってしまえば、日本という特殊な国に、民主主義が根付くということは、百年河清を俟っても無理だというのがわたしの気持ちです。今後も選挙に行くつもりはありません。

PS.

このブログ、おもしろいですね。

56:
※55
MKさんコメントありがとうございます。
わたしは「多数決」が機能していないと思うんですよね。
もっと効果的な機能としての「多数決」でないと何をしてもダメかなと思ってしまいます。
結構民主主義の根幹ですからね。
55:
国民一人一人が、一票を行使することが自分たちの生活に影響があると言うことを自覚する必要がありますね。
どうしようもない政治家はどうしようもない有権者が選ぶわけですからねえ。

今の状況は国民の水準の反映何じゃないかと思っています。訳のわからないことをメディアに吹き込まれるレベルでは大変ですね。
国民一人一人が勉強してより高い識見を持ってそのレベルに見合う議員を選ぶことから始めるのが(回り道に見えても)近道だと思っています。

もちろん国民が、愚民、であってくれるほうが都合がよい議員はたくさんいると思います。

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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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