FC2ブログ

人間は、「絵の中」では「形」でしか「モノ」を認識できない



これは、先日このブログで「抽象表現」についての記事を書いている時に思いついたことなんですが、人間って、「絵の中」では「形」でしか「モノ」を認識していないような気がするわけです。

 ※ここで言う「形」は、主に「立体的な形」です。
  「平面的で図形的な形」というよりは、人間が「モノ」として認識し
  易い「立体的な形」ということに成ります。
  ただし、「平面的な形」でも「モノ」を認識できる場合もありますか
  ら、あくまで『主に』ということです。

 ※また、ここで言う「モノ」は人間がなんらかのまとまりのある「モノ」
  として認識できるような「モノ」ということです。
  「物質」とは限りませんが、かなり「物質に近い意味」だと思います。
  要するに、人間の認識の中で「意味のある像」として感じられる「モ
  ノ」ということに成ります。


もちろん、人間は「形」だけでなく「色」も「音」も「味」も「匂い」も「手触り」も、どれも全部「認識しているわけですが、それらの中で「絵」に直接関係があるのは「色」と「手触り」ぐらいまででしょうし、「手触り」に関しては、「絵」の場合、あくまで見た感じから「手触り」を想像するということに成るでしょうから、純粋な意味で「触覚的」であるとは言えないと思います。

そうなると、やはり「色」と「形」ということに成るわけですけど、「色」だけで「モノ」を認識できるのか?ということに成ると、かなり難しいんじゃないかと思うわけですねぇ。

このことは、おそらくほとんどの人が既にわかっていることなんだと思いますが、それでいて、このことをハッキリと意識している人は意外と少ないんじゃないのかなと思うわけです(まぁ、自分がそうだったということです)。
要するに、この辺の所が、けっこうキッチリ見切れていなかったりするんですよね。

もちろん、「色で表現できること」もありますが、それは「モノ」ではないわけです。
そのことがハッキリしていないと、いつの間にかなんとなく「色」でナニが表現出来て、ナニが表現できないのかが曖昧なまま制作することに成るわけで、当然見た人には「その曖昧な部分」は伝わらなくなってしまうわけです。

これは「色」に限ったことでは無いと思います。
たとえば、最近よく言われることですが『「現在の芸術」は「芸術の文脈」を読み解きながら創作したり鑑賞したりするものなのだ』という「非常に売り手(作り手)市場な論理」がありますが、『じゃあ、その「文脈」で何が表現できるのか?』ということに成ると、人によってテンデンバラバラで極めてテキトーな答えが返って来るでしょうね。
要するに、「文脈?」っていう「意味不明のキーワード」で煙に巻いて誤魔化しているに過ぎないんだと思いますよ。

 ※こういうのは、『ナントナク空気を読んで制作しています』というの
  と変わりませんね。
  そんなものを「芸術」と呼ぶ「意味」がありません。

  この「文脈」という言葉を、皆さんこぞって使いたがる理由がわかり
  ませんが、少なくとも「鑑賞者」は、この「売り手(作り手)の身勝
  手な論理」を拒否していいと思いますよ。
  この論理に基づいて「芸術市場」が動いている限り、「文脈に沿った
  モノ」を売ってさえいれば必ず売れるし、「文脈に沿ったモノ」を作
  ってさえいれば、必ずそれを売ってくれる人が現れるという構造に成
  っているわけで、これは完全に「売り手(作り手)側の論理」だと思
  いますからね。

他のことでも、こういう「誤魔化し」や「曖昧さ」はたくさんあるでしょうが、そういう所を少しづつでも明快にしていくことが「芸術をわかるモノ」にして行くことにつながるんじゃないでしょうか?

要するに、「色」も「文脈」も「他のナニカ」も、すべて「限られた表現力」しか持っていないということです。
それは「形」も同じですが、「形」は人間にとって常に明快であり、誤魔化しがきかない表現形式であるということだと思います。
その点で、「色」は「曖昧さ」が長所でもあり、短所でもあるんだと思います。
だから、誤解を生み出しやすいんだと思います。

たとえば、人間は「リンゴの形」を認識できますし、「リンゴの色」も認識できるわけですが、「形」だけで「リンゴ」を識別することは出来ても、「色」だけで「リンゴ」を識別するのはかなり難しくなってしまうわけです。

人間はどんな「色」をしていても「リンゴの形」をしたものは「リンゴ」として認識しますが、さまざまな形をしたものが、いくら「色」だけ「リンゴの色」をしていても、それを「リンゴ」だと認識できる人はほとんどいないということですね。

つまり、「リンゴの形」をしたものは、青ければ「青いリンゴ」と言われますし黒ければ「黒いリンゴ」と言われますが、「リンゴの色」で「パイナップルの形」をしたものは「リンゴのような色をしたパイナップル」と言われることはあっても、「パイナップル形のリンゴ」と言われることはないということです。(ピコ太郎?)

要するに、「モノ」の認識においては、「形」が圧倒的だということですね。
逆に、「絵の中」で「色」は「モノ」を表現していないということに成るわけです。

現在言われている「抽象表現」というものが非常にわかりづらくなってしまっている理由の一つは、「形を使わない表現」を「抽象表現」であるとしてしまっているからなんじゃないかと思いますが、「形」でしか「モノ」を現すことが出来ないんだとすれば、わかりづらくなるのも当然の結果ですよね。
「視覚」に関して言えば、人間は基本的に「モノ」を認識するように出来ていると思いますから、『「モノ」が無い』ということは、ハッキリとした認識がほとんど出来なく成ってしまうわけです。

 ※「形を使わない表現」は「抽象」というよりは「非形象」と言うのが正確
  ではないでしょうか?

 ※人間は「モノ」以外の「色」や「図形的な形」や「質感」なども認識する
  ことが出来ますが、それらは必ずと言っていいほど「モノ」に結び付けら
  れて認識されるわけです。
  つまり、「モノの色」や「モノの形」や「モノの質感」として認識される
  のが圧倒的にスタンダードなわけです。
  実際、自然界には「モノの〇〇」しか存在しないですからね。
  「モノ」でない「純粋な色」や「純粋な質感」を認識することが”不可能”
  だとは思いませんが、どちらかと言えば”不自然”だと思います。
  だから、純粋なハズなのに、結果的に表現力が弱くなってしまうんじゃな
  いでしょうか?

確かに「モノ」に対する認識以外にも、人間が知覚出来ることはいろいろあるでしょうから、必ずしも「モノ」である必要はないのかも知れませんが、少なくとも「モノを認識すること」は人間の知覚のかなりの部分を占めているわけですから、そこを外してしまえば、相当表現の幅が狭くなってしまうのは避けられないということです。
しかも、「絵」を描けば、必ず何らかの「形」が発生してしまいますから、そこを無理に外そうとすれば、ドンドン窮屈になって行って表現の幅を狭めていかざるを得なくなってしまうわけですね。

そして、さらに「形を使わない表現」が「非形象」というようなものだとすれば、それはいずれ「色象」というような形態に向かうしかないわけですが、それは「デザイン」であって、「芸術」の中心からは少し離れたところのジャンルに成るわけです。

「デザイン」と「絵」の違いは、「絵」が「絵の中」に「世界」を創り出すものであるのに対して、「デザイン」は「世界」を展開することを目標としていないということだと思います。
つまり、「作者の表現する世界」があるか無いかの違いだと思うわけです。
「デザイン」に作者の「強い主張」や「自己表現」が世界感として展開されることはほとんど無いと思いますが、「現在の芸術」にとっては、それが中心的な目的でしょうから、そこに大きな違いがあるわけです。
ということは、「芸術」が「デザイン化」すれば、当然「主張」や「表現」としての力強さを失うわけで、徐々に芸術の中心からは遠ざかっていくことに成るわけです。

このように、「現代美術」においては、結果的に「芸術の中心」から離れたところにあるようなものが、最も「先端的&芸術的」であるとされていますから、それで、「現代美術」を見た人が困惑することに成るわけです。

こういう状態を続けていくことには、何の意味もないと思いますので、出来るだけ早くこういう状態が解消されればいいなと思いますが、このコンガラカッテどうしようもなく行き詰っている状態を何とかするには、取り敢えず『出来ることをやっていく』ということしかないでしょうから、そういうことの一つがこの話というわけです。

ということで、『「モノ」は「形」でしか表現できないよ!』


という風に思っております。


関連記事

管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

QRコード

QR