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「子供の絵」は「抽象画」なのか?



『「子供の絵」が、実は一番素晴らしいんですねぇ!』というの、よく聞きますよね。
「芸術」の専門家が言っている場合なんかも多いと思います。
(ここで言う「子供の絵」は、「ごく一般的な子供の絵」のことです。だって、そういう意味なんでしょ?)

でも、本当に「子供の絵」は素晴らしいんでしょうか?
だったら、なんで、その人たちは「そのスバラシイ絵」を」を超・高額で買って、コレクションしないんでしょうか?
どうして、「ごく普通の子供の絵」が展覧会の上位入賞作を独占していないんでしょうか?
それどころか、「ごく普通の子供」が文化勲章をもらっているはずですよね。
しかも、みんな。

『なにアホなことを言ってんだ!このボケナスが!!』

そうですよね。
でも、どうして「アホなこと」に成ってしまうんでしょうねぇ?

『「子供の絵」が一番素晴らしいんだ!』と言うなら、「子供の絵」に一番高い価値を認めるべきでしょうし、最も評価されていいハズです。
でも、明らかにそうは成っていません。
多くの専門家を含む人たちが、こぞって『「子供の絵」は素晴らしい!』と言っているのに、誰一人「ごく普通の子供の絵」には出費したり、ご立派な賞を与えようとはしません。
せいぜい口で褒めるくらいです。
それ、信じられますか?
(いや、お金の問題ではなくて!)

要するに、『「子供の絵」が一番素晴らしいんだ!』というのは嘘だということですね。
少なくとも「一番」ではないはずです。

嘘つきでもなんでもない人たちが言っていることなのに、なんで嘘ができあがってしまうのか?

もう一つこれと似た話で、『もっとも純粋な「抽象画」っていうのは「子供の絵」なんだよねぇ』というのがあります。

この二つの似かよった話の中には、同じような「ギミック」があると思うわけです。
つまり、この二つの話には「落とし穴」や「罠」のような仕掛けが出来てしまっていて、矛盾しているのに、その矛盾が見えにくくなっているんだと思うわけです。
それで、嘘をつくつもりがないのに、嘘をつかされる羽目に成るんだと思います。


「抽象画」の話で考えた方が分かりやすいような気がするので、まずそちらから考えてみようと思います。

子供が、グチャグチャっとした絵を描いたのを、大人たちが見て『これって、完全に「抽象画」だよね』というパターンがありますが、あれは、本当に「抽象画」と言えるんでしょうか?

「抽象っぽい」のは事実です。
でも、「抽象画」なんでしょうか?ということですね。

ここに前述の「ギミック(罠)」があると思うわけです。
つまり、「抽象っぽい」と「抽象である」の違いですね。
これをすり替えてしまうことから「ギミック」が生じているわけですね。

確かに「子供の絵」は「大人の絵」と比べた場合、体裁を気にしないで自由に描いていることが多いですから、その分、色彩も構図も大胆だし、だいいち、モノの形にとらわれていないことも多いので、それで「抽象っぽい」印象があるのは事実だと思います。
それを「抽象画」だと言っても、完全な間違いだとは思いません。

しかし、実を言うと、それはありとあらゆるものに言えることです。
たとえば、天体望遠鏡で見た宇宙にしても、顕微鏡で見た細胞の断面でも、雪の結晶でも、なんだって「抽象っぽい」わけです。
それどころか、どんなに「具象的な絵」であっても、その一部分を虫メガネで拡大してみれば、きっと「抽象っぽい」と思います。

つまり「抽象っぽい」ということは「抽象である」ということとは、まったく別のことなわけです。
どんなものでも「抽象的な視点」で見れば「抽象っぽい」と言えるでしょうし、それを「抽象画」だと言っても完全な間違いではないと思います。
ただ、それを敢えて「抽象画である」と言うことにどれほどの意味があるのか?ということです。

たとえば、鉄板がさびていても「抽象っぽい」ですし、木の木目だって「抽象っぽい」ですが、それらは「抽象画」ではありません。
なぜなら、「抽象と言う作業」が行われていないからです。
それと同じように「子供の絵」においても、「抽象と言う作業」は行われていないわけですから、やはり、それを「抽象である」と言うことの意味は希薄であると言わざるを得ないわけですね。

ただ単に、鉄板や木目だと、人間の「作者」が居ないのでわかりやすく成るだけです。
そこのところが、例え子供であっても「作者」が居るとわかり難く成るわけですね。
つまり、『「子供」が「抽象と言う作業」を行うわけがない』という考え方が、偏見的なことなんじゃないかと見えてしまうわけです。

でも、もともと「子供の絵」が「抽象っぽい」のは、考えずに描くからであり、物事にとらわれずに描くからであるわけです。
ところが、その「考えない」や「とらわれない」が「抽象と言う作業」に相反しているわけです。

この辺も誤解されていることがあると思いますが、「抽象という作業」は「考えること」で成り立つ作業ですし、「とらわれていること」から抜け出そうとする作業ですから、はじめからとらわれていない子供には「抽象という作業」が発生することは無いわけです。

たまたま、「抽象という作業」が行われていないのに「抽象っぽい」ものが出来て来ることがあるのは、おそらく「現在の抽象画」が、たまたま「子供の絵」と同じような位置にあるからだと思います。
そして「抽象画」は半世紀以上前からその位置に留まってしまって行き詰ってしまいましたから、そういう絵が「抽象画のイメージ」に成ってしまっているということだと思います。

つまり、本来もう少し先に行っているはずだった「抽象画」が行き詰ってしまっているために「子供の絵」と区別できないモノに成っているわけです。
(もちろん、もっと先まで行った人も居たでしょうが、「抽象画全体」としては止まっているということだと思います)

子供は考えずにその位置に居ますが、「真面目に抽象画を描いている人たち」は、考えてその位置に立っています。
(考えない人も居ると思いますけど)
片方は「抽象という作業の結果」であり、もう一方は「考えないことの結果」です。

だから、同じように見えても、片方は「抽象画」であって、もう一方は「抽象っぽい」だけです。


すべての大人がちょっと前までは子供であったわけです。
きっと、その時はみんな「子供の絵」を描いていたはずです。
それが「抽象っぽい絵」です。

そして、大人に成ってからは「大人の絵」を描くようになります。
多くの場合、はじめは「具象画」です。

その後、その人が真面目に「抽象画」を目指すように成れば、きっと、それが「抽象画」です。

でも、それはまだ「子供の絵」に戻っただけです。
つまり、せっかく描けるように成った「大人の絵」を、敢えて切り捨てて乗り越えて行こうとした結果「子供の絵」に戻ってしまうわけです。
だから、似たようなものに成ります。
それがいまの「抽象画」の位置です。
戻るだけですから、割と簡単にできるわけですね。

そして、ここで止まってしまっています。
個人的に新しい局面を創り出してきた人は居るでしょうが、「抽象」としての全体のイメージはまだまだ変わっていません。

でも、その次に「本来あるべき現在形の抽象画」があるハズなわけです。
まだ、「大人の絵」を切り捨てただけで、本当の意味での「抽象画」にはなっていないわけですから。
それで「子供の絵」と似たようなものに成っているわけです。
しかし、そこで止まってしまっているわけです。

「子供の絵」→「大人の絵」→「抽象画」→「本来の抽象画」という順番になっているわけですね(最後の段階がまだ達成されていないということですが)。

だから、「子供の絵」と「抽象画」は違う段階のものですし、「本来の抽象画」はさらに次の段階なんだと思います。


ここで初めの話に戻ると、『「子供の絵」が、実は一番素晴らしいんですねぇ!』と言われるときにも、これと同じような順番があって、その順番がすり替えられてしまうということです。

「子供の絵」→「大人の絵」→「いい絵」→「素晴らしい絵」ということに成るわけですが、それぞれの段階から次の段階に移るには、常に、前の段階を乗り越えていく必要があるわけです。
というよりも、乗り越えること自体に意味があります。
だから、一番初めの段階の「子供の絵」を一足飛びに「素晴らしい絵」としてしまっているのには、当然無理があるわけですね。

「子供の絵」を乗り越えて「大人の絵」を描くことに意味があります。
はじめから「大人の絵」を描ける子供の場合は「大人の絵」を描くことに意味はありません。
それは、ただ単に「ウマイ」と言うだけで、「芸術」としての意味とは言えませんから。
つまり、それは「技術」であるということです。
そして、その「大人の絵」を乗り越えて、次の段階の「いい絵」を描くことからが、その子にとっての意味に成るわけです。
当然、「いい絵」の次に行くには、「いい絵」を乗り越えていかねばなりません。
たとえ「いい絵」であっても、それを切り捨てて乗り越えていくことに意味が生まれます。
そして、その次の段階に行って「素晴らしい絵」を描く意味があるわけです。

だから、もしも『「子供の絵」が、実は一番素晴らしいんですねぇ!』が事実だとしたら、そこにはすべての意味が無くなってしまうということです。
もし仮に、子供の時に既に「素晴らしい絵」が描ける子供がいても(実際には居ないと思いますけど)、そこには何の意味もないということです。

「現在の芸術」がある位置は、そういう位置だと思います。
「現在の芸術」においては、「すでに出来ること」をやっても意味が無いということですね。
その「出来ること」を敢えて切り捨てて「出来ないこと」に挑戦する姿勢に「芸術としての意味」が生まれます。

「子供の絵」は確かに自由ですし、大胆ではありますが、そういう「芸術としての意味」は無いと思います。
なんと言っても、そういう段階を踏むだけの年月を経ていないわけですから。
それに、子供に対して『今あなたが持っているモノをすべて切り捨てて、未知の領域に挑戦しなさい!』と要求するのはハッキリ言って非情だと思います。
やっぱり、子供の時期には好き勝手に自由に描いている方がいいように思いますね。
その時期に「現在の芸術としての意味」を追求する必要はないと思います。

だから、「子供の絵」を「抽象画」と言わない方がいいと思いますし、「子供の絵」を「素晴らしい絵」と言わない方がいいと思うわけです。
『「その子の絵」ではなく、「その子」を褒めてやってください!』と言いたいですね。


まぁ、そんな風に思ったわけです。

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追記:この記事とは違う話なんですが、ついでに書いておくと、『なんで、子供の絵が高額
   で取引されたり、権威ある賞を与えられたりしないのか?』ということです。
   それは、つまるところ、「芸術の権威」が失墜するのを恐れる人が居るからです。
   そして、そういう人たちが「芸術の値段を決めている人」でもあり、「芸術に賞を与
   えている人」でもあるわけですね。
   だから、「普通の子供の絵」とほぼ同じ位置にある「抽象画」は高額で取引されます
   が、「普通の子供の絵」は高額で取引されません。
   「子供の絵」であっても、「特別な子供の絵」は高額で取引されるかもしれません。
   なぜなら、そこに「権威」が付加されるからです。
   だから、「芸術の権威が失墜するのを恐れている人たち」も安心して取引できるよう
   に成るわけですね。
   『あぁ、ヨカッタ、ヨカッタ』



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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※上の画像は習作として描いた絵に洋金箔を貼ったものです。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ現在ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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