FC2ブログ

「時代の潮流に乗ったもの」はすべて「亜流」であるということ



「芸術」においては、特に言えることだと思いますが、「時代の流れ」に乗ったものは認められる確率が高いですし、多くの人に受け入れられるわけです。

ところが、実を言うと、この「時代の潮流に乗ったもの」というのは、すべて「亜流」だと思うわけです。


一般的には、「時代の潮流を生み出したもの」こそが「本流」であって、「その後を追ったもの」が、「亜流」であると言われることが多いですが、実は「時代の潮流」は誰かが生みだしたりするものではなく、「時代と共に出来上がってしまうもの」なんじゃないかと思うわけです。
だとすれば「時代の潮流」に乗るということは「時代」の後を追うことなわけですから、その「潮流」の中心に居たとしても、「その時代の亜流」であることには変わりがないということに成るわけです。

つまり、「誰かの亜流」ではなくて「時代の亜流」なわけですね。
ということは、「亜流でないもの」とは「時代の潮流から外れたもの」ということに成るわけです。


かなり昔の時代までは、「時代の潮流に乗ったもの」が「本流」だったんだと思いますが、それはその時点でまだ「芸術」が「自己表現」を追求していなかったからだと思うわけです。
「現在の芸術」は「自己表現」であることを第一義的に追及しているわけですから、「ナニカの亜流」であったら意味がありません。

たとえば、「ルネサンス」の時代においては、ミケランジェロもダ・ヴィンチもラファエロも、「ルネサンス」という時代の中心に居た人たちはみな本流だといって問題ないわけです。
作風がどんなに似かよっていても差し支えはありません。
というよりも、「ルネサンス」の中心に近い位置にいるということ自体が、「ルネサンス風」の作風を代表するような作風であることを意味するわけですから、作風が似ているのはむしろ当たり前です。

ところが、「芸術」が「自己表現」であることを第一義とするように成った後の時代においては、「その時代を代表するような作風」を取った人は全部「亜流」ということに成るわけです。
たとえば、「キュビズム」の作家は全部「キュビズム」というスタイルの「亜流」なんだと思うわけですね。
つまり、ピカソだろうがブラックだろうが関係なく「キュビズムの亜流」なわけです。
敢えて言えば、セザンヌまで遡っていくと「亜流」ではなくなります。
でも、それは「セザンヌ」が独自の絵画表現として「キュービックな表現形式」を模索していた時には、まだ、それが「時代の潮流」に成っていなかったからであって(というか、まだ「キュビズム」と言うモノが無かった)、彼が「キュビズム」の先鞭をつけたからというわけではないんだと思うわけです。

もちろん、これは「キュビズム」に限らず、すべての「~イズム」について言えることだと思います。
要するに、今はもう「時代の要求」に答える形で現れてきたスタイルに「本流」はあり得ないということです。
「自分の要求」に答えて現われて来た「唯一無二」のスタイルだけが、その人だけの「本流」ということに成るわけですね。
だから、こちらには「亜流」があり得ません。

たとえ、「誰かの亜流」ではないとしても「時代の亜流」であれば、けっきょく「ナニカの亜流」ではあるわけで、「自分の本流」からは離れていることに成るわけです。
つまり、「時代の潮流」から外れていかないと「自分の本流」に乗っかることは出来ないということですね。

だったら、どんどん外れていきたいですねぇ。
「ナニカの亜流」であるのなら、せっかく今の時代に「芸術」やってる意味が無いですから。


そんな風に思っておりますよ。



関連記事

Comment 0

There are no comments yet.