FC2ブログ

「抽象画」の中で「モノ」をどう扱うのか?



前の記事に関連した話です。


前の記事で、『「絵の中」では「形」でしか「モノ」を表現することは出来ない』と言うようなことを書いたんですが、その「絵の中におけるモノ」とは、どういった「モノ」で、それは「絵の中」でどういった意味を持っているのか?というような話です。


私の場合、『抽象画なんだけど、「モノ」を描くよ!』ということでやっているんですが、そこで、『抽象画って「モノ」を描かないことなんじゃないの?』ということが出て来ると思うわけですね。

もしも、「抽象画」を厳密に捉えていけば、「モノを描くこと」とは矛盾が出て来るのかも知れませんが、でも、実は「抽象画」を厳密に捉えていくと、「モノ」だけでなく最終的には何も描くことが出来なくなってしまうと思うわけです。

つまり、「抽象」という概念は、純粋すぎて「人間の能力」を超えているようなところがあるわけですね。
だから、完璧に実行しようとするとフリーズしてしまうんだと思います。

なんと言っても「真実」や「本質」を現わそうとするのが「抽象」の本当の意味なわけですから、そんなこと完璧に実行なんてできるわけありません。
だから、それを「達成すること」ではなく「やろうとすること」の方に意味を見い出すしかないんだと思うわけですね。

まぁ、私の場合は、自分にとっての「やろうとすること」が、『抽象なんだけど「モノ」を描くよ!』ということだったわけです。

そこで、前の記事の話に成るわけですが、要するに「形」を使って「モノ」を描かないと、「絵」における表現のかなりの部分が失われるわけで、「色」だけでは「モノ」を現わせませんし、「モノ」を使わないと「具体性」が無くなりますから、「チカラ」が生まれません。
どうしても、『雲をつかむような』希薄な感じに成ってしまうわけですねぇ。

 ※「具体性」があったら「具象」であって「抽象」じゃなくなってしまう
  んじゃないか?と思う人も居るでしょうが、私は「具象」と「抽象」を
  対立する概念とは考えていません。
  だから、「具体性」があっても、「本質」や「真実」に向かう姿勢を持
  っていれば、それを「抽象」と呼んでもいいと思っているわけです。

  ただ、そこでできる限り「現実のモノ」ではなく「異・現実のモノ」を
  表現することを目指しているということです。

そういうのを、私は「肉体を失った芸術」と言っているんですが、「肉体を失った精神」というのは、「亡霊」に成ってさまようことしかできなくなってしまうんだと思うんですね。
つまり、そういう「具体性が排除されてしまった芸術」というのは、「芸術の亡霊」であって、「存在」として希薄であるために、実質的な意味を持つことが出来ないんだと思います。

そういう「フワフワした芸術」を「センスがいい」とか「才能がある」とか言っているようなところがあると思います。

それよりは、「精神の純粋性」を少しだけ犠牲にしたとしても、「肉体」を取り戻すことで「精神」が宿る場所が出来れば、そのほうが少しマシなんじゃないかと思うわけです。


それは、「現在形の芸術」的な視点から見たら、「ドンクサイもの」に見えるかもしれませんが、それでも、そこには「具体性」という「チカラ」が生まれます。
「現在形の芸術」は、そういう「チカラ」を失っていると思うんですが、どうでしょうか?

つまり、「絵の中」における「モノ」というのが、その「具体性」という「チカラ」を象徴している存在なんじゃないかと思うんですねぇ。
もちろん、これは「絵」に限ったことではないんですが、「立体」は「現実のモノ」ですし「パフォーマンス・アート」などの「行為」は「モノ」ではありませんが、「実体のある人間」が行うことですから、「表現としてのモノ」という点が、やや解り辛くなってしまうと思います。
そうなると、やっぱり「絵の中のモノ」が、この「抽象における具体性」を最も端的に現していると思います。

さて、「絵の中」における「モノ」とは、「具体性」であり「チカラ」であるということなんですが、その「絵の中のモノ」とは「絵の中」でどういう意味を与えられるのかということに成るわけですね。


具象画の場合は、多くの場合「モノ」が「主題」に近い意味になるわけです。
たとえ、「モノ」ではない「ナニカ」を表現しようとする場合であっても、「現実のモノ」の範囲の中でそれを表現していくのが「具象表現」でしょうから、やはり「モノ」は「具象画」にとって「主題」であると言ってもいいんじゃないかと思います。

それに対して、「抽象画」の場合は、必ずしも「現実のモノ」が「主題(テーマ)」という位置を占めているわけではありません。
というより、どちらかと言えば「抽象画」にとって「モノ」は「邪魔者扱い」という感じもあって、「モノ」という束縛を逃れるために「抽象表現」を使うという考え方の人が多いんじゃないかと思います。

そうは言っても、前の記事の話に戻ると、「モノ」を使わないと「表現の幅」が狭くなってしまう傾向があるわけですから、やはり「モノ」を使って行きたいわけです。
そこで、「現実に存在しているモノ」ではなくて、「その絵のなかで創作されたモノ」を使うということに成るわけです。
その「創作過程」を「抽象」と言ってもいいんじゃないか?ということですね。

ところが、いざ「抽象画」で「モノ」を扱おうとすれば、いきなりショッパナから『ナニを描いていいのかわからない』という問題が出て来るわけです。
「現実のモノ」を描いてしまえば「具象画」に成ってしまうわけだし、その「現実」という枠を超えるために「抽象表現」を選択しているわけですから、それでは元の木阿弥になってしまいます。

ところが、『「現実」ではないけど「モノ」ではある「ナニカ」を描け!』と言われると、ほとんどの人がナニを描いていいのかわからなくなるんじゃないかと思います。

それで、仕方なく『キャンバスの上にイメージをぶつけるんだ!!』と言って、勢いだけで誤魔化そうとするわけです。
それが、現在言われているところの「抽象画」の一つの実体であるわけです。

 ※もちろん、そういう「抽象画」ばかりではないと思いますが、少なく
  とも、いま言われているところの「抽象画」には、このような漠然と
  した概念が成立してしまっているようなところがあるのは確かなこと
  ではないかと思います。
  
『「抽象画」なんだから、「具体性」は必要ないんだよ!いや、むしろ「具体制」があってはいけないんだよ!キミィ』
これが、違うんじゃないかと思うわけですねぇ。

まず、「抽象」と「具象」は対立する概念ではないと思いますし、「抽象性」と「具象性」が両立していてこそ「芸術表現」が成り立つわけで、「抽象表現」において作者が「具象性」や「具体性」を排除しようとしてきたのは、『具体的にナニを描いていいかわからなかった』ということを誤魔化す為だったような気がします。

それで、『取り敢えず、「具象じゃないこと」をやれば「抽象」に見えるだろう』という感じで、体裁だけを繕ってしまったところがあったんじゃないかと思うわけですね。

実際に、「具象画」だと、「現実にあるモノ」がモチーフとしていくらでもあるわけで、それらが『私を描いて!』と言って待っていてくれるわけですが、「抽象画」の場合は、そういう「作者を待っていてくれるモチーフ」が一切無いわけです。

だから、『ナニを描いていいのかわからない』のが、むしろ当たり前なんだと思います。
どちらかと言えば、『はじめから描くモノがわかっている人』の方がオカシイくらいだと思いますよ。
というか、そこのところの「模索段階」こそが「抽象という作業」なんだと言ってもいいくらいで、ある意味では『はじめからわかっていたら』それを「抽象」とは言えないという感じもあるわけですね。

つまり、「何もない所からナニカを生み出す作業」を「抽象」というようなところがあるわけで、「そこから先」にしか「抽象表現」という概念は成立しないんじゃないかと思うわけです。

だから、漠然とした心の状態を『キャンバスにたたきつけて』も、それは「抽象」ではないんじゃないかと思いますね。
それは「具象」ではないかも知れませんが、「抽象」とも言えない状態、つまりは「なんでもない」ということだと思いますよ。
(自由ではあると思いますが)

その「漠然とした心の状態」に「具体性」を与える作業を「抽象」というんじゃないかと思うわけです。
つまり、その「漠然とした心の状態」が作品の「主題(テーマ)」ということに成るわけですね。
そして、それが「現実のモノ」や「物質的なモノ」ではないということが「具象表現」との違いに成るということです。

現在までの「抽象」においては、主に、その「漠然としたナニカ」を、そのまま漠然と表現してきたわけです。
それで、『抽象画はわからない』と言われてきたわけですし、『私はわかってますよ』と言う人も、実際にはわかってないと思います。
というか、ハッキリ言えば『わかるわけないでしょ!』と言わざるを得ないわけで、『論理的に言って不可能』なことだと思いますよ。

とにかく、「抽象画」における「モノ」の意味とは、「何もない所から生み出されるナニカ」という意味であり、その「ナニカ」がナニであるかということよりも、「ナニでもないナニカ」であるということに意味があるということですね。

別の言い方をすれば、「抽象」における「モノ」とは「ナニでもないナニカ」でありさえすればそれでいいということです。
つまり、「ナニカであること」に限定されない「自由なモノ」であることが重要なのであって、その「自由なモノ」という領域を使うために「既に存在しているモノ」」を使わずに、敢えてその絵の中で「モノ」を」を創り出すことに成るわけです。

つまり、「モノ」は単なる「媒体」であって、本当の「主題」は「作者自身の精神」です。
ただ、それを伝えるために「具体性」が必要に成るので、その為の「媒体」として「モノ」を使うわけです。
そして、「その作品の中で創り出されたモノ」が、「作者の精神」を伝えるのに最も適しているという考え方が「抽象」と言う考え方なんだと思います。

要するに、「抽象画」の中における「モノ」とは、「作者の精神」を伝えるための「媒体」であり、テーマである「作者の精神」に「具体性」を与えるための道具であるということです。

言い方を変えれば、「作者の精神」が宿るべき「肉体」が「抽象画」の中での「モノ」の意味だということかなと。


そんな風に思っているわけです。



関連記事

管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

QRコード

QR