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「外見」によって表現することができる範囲



抽象画を描いていると、よく人から『これは何を表現しようとしているんですか?』と聞かれるわけですが、『それを言葉で説明出来ないから絵を描いてるんですけどねぇ』と答えるしかないので、とてももどかしく思うわけです。

そういう時には「抽象画」なんてやめて、誰もが難しく考えないでも見ることが出来る絵を描いた方が、少しはマシなんじゃないのか?と思うわけですが、『そういう絵では自分自身が納得できないんだから仕方がないよなぁ』と自分に言い聞かせるしかないというわけです。

で、『なんで納得できないのか?』というお話です。

それは、要するに「表現することが出来る範囲」の問題なんだと思うわけです。

「具象表現」というのは「現実のモノの外見」を使って表現することだと思いますが、その「外見」で現すことが出来る「範囲」に、やや不満があるということなわけです。
不満と言っても、実は「飽きてしまった」ということなのかも知れません。
つまり、「外見によって表現することが出来る範囲」に飽きてしまったわけです。

実際に、「外見」でもいろいろなモノが表現できますし、その表現力においても必ずしも「抽象表現」の方が上回っているということは無いように思います。
むしろ、「抽象表現」は非常に不安定で、伝わりにくい表現形式なんだと思います。
(これ、「抽象」をやっている人は認めた方がいいと思います)

それなのにどうして「抽象表現」を使うのか?と言えば、やっぱり『まだ出来ていないから』なんだと思いますよ。

 ※私は「抽象表現」は、まだ誰にも達成されていないと思ってい
  ます。更に、おそらく今後も達成されることは無いと思います。
  つまり、「抽象表現」とは、達成不能な表現形式であるというこ
  とです。
  この「不可能への永続的な挑戦」こそが「抽象」という作業であ
  り、さらにその意義でもあると思っております。

確かに「外見」を使った「具象表現」でも、伝えられることもあれば伝えられないこともあるでしょう。
それは「抽象表現」でも同じです。
ただ、その「伝えられるもの」と「伝えられないもの」の範囲に違いがあるわけで、それで、まぁ『どうせだったら目新しいものを』ということに成るわけですね。

あとは、「チャレンジ」ですね。
「現在の芸術」において「挑戦する姿勢」を示すことは「芸術の重要な役割」の一つだと思いますので、「新しいこと」や「困難なこと」にチャレンジする姿勢は必要なんじゃないかと思うわけです。

それから、もう一つ「自己表現」ということがあります。
(本当のことを言えば「目新しいこと」よりも、こちらが重要ではあるわけです)
これも「現在形の芸術」においては、中心的な課題に成るわけですが、その「自己表現」には「抽象表現」が向いているということがあるんだと思います。
もちろん、「具象表現」を使っても「自己表現」は可能だと思いますし、「ナニカを表現すること自体」が「自己表現」であるとも言えるわけですが、「抽象表現」に「自己」が丸出しに成るというのは確かによくあることなんじゃないかと思います。
要するに、「自己」を隠す「外見」が無いので、「自己」が「丸出し」に成るんでしょうね。
逆に言うと、「具象表現」においては「外見」という「隠れミノ」があるために、「自己」が見えにくくなるということなんじゃないかと思うわけです。

さて、話を「外見によって表現することができる範囲」に戻すと、何が「外見で現すことが出来るモノ」で、何が「外見では現すことが出来ないモノ」なのか?ということですね。

まず、よく言われることで『感情のような精神的なものを現すために抽象表現を使うんだ』というのがありますが、実は、「感情」は「人間の表情」などの「外見」でも現すことが出来ますから、必ずしも、「抽象表現」でなければならないというわけでもないと思うわけです。

 ※「感情」をダイレクトに表現することは、「抽象」でも「具象」でも
  できないと思います。
  「具象」で言えば、「表情」や「しぐさ」を通じて表現するしかない
  ので間接的な表現に成ります。でも、「抽象」で直接的に「感情」を
  表現できるか?というと必ずしもそうでもないわけで、けっきょく使
  っているのは「色」や「形」でしかないわけですが、「その色や形」
  は「感情の色や形」ではなく『なんとなくこんな感じ?』という曖昧
  な根拠に基づいて割り出された「色や形」なわけですから、直接的に
  「感情」を表現しているわけではありません。
  ただ単に、『「他のナニカの色や形」ではない』というだけです。

では、「抽象表現でなければならないもの」とは、ナニなのか?
私は、それを「普遍的なもの」だと思うわけです。

 ※ここで言う「普遍的」とは、いろいろなモノに遍在している性質という
  ような意味です。「個別のモノ」の中にあるような「特定の性質」では
  なく、あらゆるものの中にある「世の中の本質」に近い意味で言ってお
  ります。
  実際には、そんなもの現わせませんが、そこに向かって『頑張ります!』
  ということですね。

「精神」と言っても、所詮は「物質に宿っている精神」なわけですから「物質」によってあらわせるはずです。
つまり、「人間の精神」であれば「人間の外見(肉体や表情)」によってあらわすことが出来るということに成るわけです。

その逆に、「外見」で現すことが出来ないのは、「複数のもの」に共有されている「性質」であるわけです。
それが、「普遍的なもの」です。
「精神」であるか「物質」であるかということよりも、「個」であるか「普遍」であるかということの影響の方が大きいわけですね。

例えば、人間を描こうとすれば、必ず「男性」を描くのか「女性」を描くのか選ばなければなりませんし、花を描こうとすれば、「何の花」を描くのかを選ばなければならなく成るわけです。
そこで、もしも、「男性」と「女性」の両方を同時に表そうとすれば、「男性の外見」も「女性の外見」も、どちらも使うことが出来なくなってしまうわけです。
花であっても、二種類の花を一つの絵で現わそうとすれば、「どちらの花の外見」も使わずに表現しなければならなくなるというわけです。

そこで、「中性的な人」を描けばいいかというと、そうでもなくて、それだと表現されるのは「男性」でも「女性」でもなく「中性的な人」です。

たった二種類のモノを同時に表そうとしただけでも、「外見」が使えなくなってしまうわけですから、より一層「普遍的なもの」を現したいと思うならば、「いかなる物質の外見」も使うことが出来なくなるということです。

という所で、長くなってしまいそうなので、次の記事に続けます。




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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※上の画像は習作として描いた絵に洋金箔を貼ったものです。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ現在ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

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