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「外見」によって表現することができる範囲(つづき)



前の記事の続きです。

「外見」によって表現することが出来ないのは「普遍的なもの」だろうというところからです。

 ※ここで言う「普遍的」とは、いろいろなモノに遍在している性質という
  ような意味です。「個別のモノ」の中にあるような「特定の性質」では
  なく、あらゆるものの中にある「世の中の本質」に近い意味で言ってお
  ります。
  そういう性質が「普遍性」で、それを持っていれば「普遍的」です。
  実際には、そんなもの現わせませんが、そこに向かって『頑張ります!』
  ということですね。

一般的には、「精神」などの形が無いものを表現するのには「抽象表現」が向いているということに成っているかと思いますが、実は「無形のもの」はどんな表現形式を使ったとしても決してダイレクトには表現することが出来ないと思うわけです。
『形が無い』ということは、「像」が無いわけですから、ほとんど何も表現できないわけです。
というか、伝わりません。
というか、それ以前になにも描けない!

やはり、「無形のもの」であっても、何らかの「形」を使って表現するしかないわけで、その点では「具象」であっても「抽象」であっても、そんなに決定的な違いは無いと思います。
「抽象」では、多くの場合『形をボヤカシテいる』」ので「形」を使っていないように見えるだけだと思います。
それに、実を言えば「精神」や「感情」も「具象表現」の方が、むしろ人に伝わり易かったりします。

だから、「精神」のような「無形のモノ」を表現するには、必ずしも「抽象表現」である必要はないと思いますが、同じ「無形のモノ」でも「普遍的なモノ」を表現しようとした場合は「抽象表現」である必要があるわけです。

前の記事に書いたように、たった二つのモノでさえ、その二つのモノを同時に表そうとすれば、「外見」を使うことは出来なくなってしまいます。
「現実にあるモノの外見」というのは、必ず「一つのモノの外見」を指しているわけで、そこに「普遍性」を持ち込むことは不可能です。
(それでないと「そのもの」が「一個のもの」として存在できませんから)
だから、「普遍的なもの」を表現するには「現実の外見」を使うことが出来ないということです。
それで、「抽象表現」を使うことに成るわけですね。

要するに、「外見によって表現することができる範囲」は、「個別のもの」までということに成るわけです。
つまり、「普遍的なもの」を表現したい場合は「現実の外見」を諦めて「現実の外見ではないナニカ」を使わなければならなくなるということですね。

現在「抽象」と言われているものの多くは、その「現実の外見ではないナニカ」として「ボヤケタ形」を使っていることが多いわけですが、実際には「ボヤケテいること」には大した意味は無いと思います。
『現実のモノの外見ではない』ということが重要なわけで、「形」がハッキリしていても特に問題は無いと思うわけです。
確かに、「ボヤケタ形」は「現実のモノの外見」ではあり得ない所がありますが、「ボヤケテいること」で、「表現」としてもボヤケテしまうことが多いわけです。

 ※このことを「抽象」では「形による表現」ではなく、純粋に「色の表現」
  を目指しているというような言い方をすることがよくありますが、「形の
  ない色」というものは存在しません。
  ただ「形」をボヤカスことは出来るというだけです。
  その「形をボヤカスこと」で、確かに「現実の外見」からは離れられます
  が、表現自体もボヤケテしまいますから、表現力が弱くなってしまうわけ
  で、それが現在「抽象」と言われている表現形態の最大の欠点に成ってい
  るわけですね。

要するに、「現実ではないモノの形」であればいいということです。
この「現実ではないモノ」のことを、私は「異現実」と呼んでいますが、「非現実」と違うのは「現実ではないが生々しいモノ」というような意味で「ありそうでないモノ」を作りたいので、「非現実的なモノ」ではなくて、「現実でないのにリアルなモノ」を「異現実」と呼んでいるわけです。

いずれにしても、「普遍的なモノ」を表現するのは、実際には不可能なのかも知れませんが、そこに向かう姿勢を示すことだけは出来るわけで、それこそが「現在の芸術」に与えられている領域なんじゃないかと思うわけです。

つまり、「ほぼ不可能なこと」に対して挑戦し続けること、そのことから「成果」を得ようとするのではなく「挑戦すること」自体を目的とすること、そういう行為こそが「現在の芸術」が示すことの出来る唯一の「純粋性」なんじゃないのかなと。

だから、「不可能」か「可能」かではなく、その創作者がほんの僅かでも「可能性」を感じたところに自分の表現の方向を持って行って、そこに向けて最大限の力を注ぎ込む、それこそが、今「芸術がやるべき仕事」なんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけなのです。

 ※「現在形の芸術」においては、この記事に書いたことのような
  「不可能性」を追求しているところがあると思うわけですが、そ
  れを、如何に『スマートに』つまり『労力ではなく才能やセンス
  を使って』表現するかということを追求してしまっています。
  そして、そのことによって、現在の「芸術の行き詰まり」が生じ
  ているということは間違いのないことではないでしょうか?

  それは、つまり、「不可能性」の中に「可能性」を見を見つけ出
  そうとするという「芸術が本質的に持っている方向性」を放棄す
  ることに成るわけですから、当然の結果だと思いますよ。
  
  要するに「才能」で出来ることは「可能なこと」までだというこ
  とですね。
  「不可能なこと」を早い段階で切り捨てて「可能なこと」を人一 
  倍に上手く達成するのが「才能」と言うモノだと思いますね。

  だから、「不可能性を追求すること」と「それを才能でやろうと
  すること」は、初めから矛盾しているわけです。
  「現代美術」は、その矛盾を「如何に上手く誤魔化すか』を競い
  合ってしまっているところがあるわけです。
  『まぁ、そんなことやってれば行き詰りますよね』ということで
  しょ?



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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※上の画像は習作として描いた絵に洋金箔を貼ったものです。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

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