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「現代美術」は「2×2バインド」



「ダブル・バインド」とか「ダブル・スタンダード」という言葉がありますが、そういう「二重の規範」というものが現代社会の中で人間を苦しめている元凶の一つだと思うわけです。

 ※ここでは「ダブル・スタンダード」は、ひとつの社会(または一人の人)の中に二つ
  の異なる規範が存在することで、「ダブル・バインド」は、その「二つの規範」が時
  と場合によって勝手気ままに使い分けられることで矛盾が発生して、その矛盾が
  人間の精神に抑圧を加えるように成ってしまうという困った状態を指しています。


現代社会において「ダブル・スタンダード」が発生してしまう要因はいろいろあると思いますし、そう言うものの中には現代という時代が避けて通れないようなものが多いと思いますから、「ダブル・スタンダード」を完全に無くすことは出来ないような気がします。
でも、「ダブル・バインド」に関しては何とか回避できると思いますし、このまま回避しないでいるとマイナスがどんどん大きくな成っていくだろうと思います。

要するに「抑圧」の部分が拡大してきているということですね。
そして、その「抑圧」の部分だけは減らすことが出来るように思うわけです。
(誰でも、自分が「抑圧」を避けることぐらいは出来ると思います)

そこに、どうして「芸術」の話が出て来るのかというと、「現代社会」がその「ダブル・バインド」を創り出して拡大し続けている原因には、「芸術」も関係があるように思うからなんですねぇ。

もともと、「ダブル・スタンダード」が生み出されたキッカケは、人間が「科学」を進歩させたことにあるんじゃないかと思います。

その昔、人間は「自然」に従った生活をしてきたわけですが、「科学」が生み出されて徐々に進歩させていく過程で、人間が「自然」に対抗するということが完全に不可能なことでも無くなってきたわけです。
もちろん、まだまだ人間は「自然」をコントロールすることが出来るわけではありませんが、少なくとも「地球上の自然」に関する限りでは「把握」しつつあります。
つまり、「ワカラナイコト」がだいぶ少なく成ってきたわけですね。

でも、まだまだ「自然」を「支配」することなどは到底できないわけで、普段は「科学」に準じた生活をしていながらも、どこかで「宗教」や「スピリチュアル」を信じて居たり、「自然災害」の時などは「大自然に対する謙虚な気持ち」を持ち出してこなければならなかったりするわけですね。
それでいて、「スピリチュアル」や「宗教信仰」を持っていれば「科学」を捨てられるのかというと、ゼンゼンで、四六時中「スマホ」をいじっていないと不安だったりすると言う状態なわけです。

この「自然に準じた規範」と「科学に準じた規範」こそが「ダブル・スタンダード」のモトに成っているモノだと思います。

 ※実際には、【「自然」VS「科学」】よりも、もっと根源的なところにある「ダブル・スタ
  ンダード」の原因もあると思いますが、「現在の人間」に限って言うと、この【「自
  然」VS「科学」】という対立が一番影響が大きいんじゃないかと思います。
  「科学」も「自然科学」というくらいですから、「自然」の範囲内ではあるんでしょうが、
  なぜか、その「科学」と「自然」が対立することが多いわけですね。
  要するに、人間は、人間に偏った「科学の使い方」をしているんでしょうね。
  
 ※また、世界が狭く成ったことによって、世界のそれぞれの地域に分かれて発展して
  きた「違う規範」が、同じ社会の中に混在するように成ったので、「地域」や「民族」
  などの間にも「ダブル・スタンダード」が発生しているわけで、そちらも影響が大きい
  ものだと思います。
  でも、それは、おそらく時代とともに解消されていくでしょう。
  要するに、人間が「地球人」という民族に成っていくんだと思います。
  それが、イイことなのか悪いことなのかはよくわかりませんけどね。

この「自然」と「科学」という「ダブル・スタンダード」に関しては、「芸術」よりも大きな枠組みでのことなので、「芸術」が直接それを止めたり推し進めたりするようなことは無いと思います。
また、この「自然」と「科学」の対立という構図は、今後も続いて行くでしょうし、人間が「科学」を手放すことが無い限り消えることはないと思います。
(もしも、人間が「科学」を手放す時が来るとすれば、その時には「芸術」や「哲学」がそこに関わることに成るのかも知れませんが、かなり遠い将来のことに成るでしょうね)

それじゃあ、ナニが「芸術」に関係しているのかと言えば、「ダブル・バインド」の方なんですね。
「ダブル・スタンダード」があれば、必ず「ダブル・バインド」が構成されるとは限らないわけで、例え「複数の規範」があっても、人間がそれに振り回されなければ「ダブル・バインド」は生み出されませんし、大きな悪影響は出てこないハズです。

でも、残念ながら、そこに「芸術」が関わってしまうわけです。
つまり、「ダブル・スタンダード」から生み出される「ダブル・バインド」のモトに成っているのが、かなりの確率で「芸術」であることが多いと思われるわけです。

『人間が振り回されなければ「ダブル・バインド」は生み出されない』と言いましたが、残念ながら、最も大きく振り回された分野こそが「芸術」であったわけです。
つまり、「芸術の20世紀」において、まさに、最も大きく振り回されたのも「芸術」であり、最も大きく振り回したのも「芸術」であったということなんですねぇ。

「芸術」って、やることが極端なんですねぇ。
だから、振り回される幅も大きくなってしまうわけなんです。

「芸術の20世紀」において、「芸術がやったこと」に関する限り、それが極端であったということを認めない人はほとんどいないと思います。
「芸術」が、「自然VS科学」の対立に最も大きく振り回されたわけですね。

なにせ、それまで常識であったようなことを、すべて破壊して、あらゆることに置いて、それと逆のことをやったと言ってもいいほどですから、これを「極端」と言わなければ「極端」という言葉の意味が成り立たなくなってしまいます。

まぁ、一言で言ってしまえば「やりすぎ」な面があったと思うわけです。
この「やりすぎ」によって、まさに典型的な「ダブル・バインド」が形成されてしまうことに成るわけです。

たとえば、「芸術の20世紀」の最大の特徴と言ってもいい「破壊」というテーマは、本来、行き詰って身動きが出来なくなったアカデミズムを一旦破壊して新たなフィールドを創り出すために必要だったわけで、あくまでその先に「新たな創造」があっての「芸術のテーマ」であったはずです。
ところが、その「破壊」までを「芸術」としてしまいましたから、「破壊」こそが「創造」であるという完全な矛盾が出来上がってしまったわけです。
まさに、「ダブル・スタンダード」の典型ですね。

そして、それが「権威」を持つように成ってしまうわけですから、当然「抑圧」が生み出されてしまいます。
ここまでのところでも、十分に典型的な「ダブル・バインド」と言っていいでしょう。

でも、さらにその上、そういう「明らかなやりすぎ」=「典型的なダブル・バインド」が現時点まで否定されずに来てしまいました。
それどころか、ますます肯定されるように成って来ています。

 ※例を挙げれば、大画面を一色で塗りつぶして一本だけ線を引いたみたいな絵が、
  異常なほどの高額で売買されていたりしますよね。


ところが、その「肯定」を本当の所では、誰も信じていません。
みんなが、多かれ少なかれ疑っています。
(『自分は信じている!』と主張している人は、洗脳状態または催眠状態にあります)


要するに、「芸術家の荒唐無稽な論理」や「専門家の超難解な説明」や「マスコミの延々と繰り返される情報」などによって、一般人はまったくそれらの意味を理解できていないままに「鵜呑み」にさせられてしまって、全く抵抗する機会を与えられないまま、さらに「教育」によっても刷り込まれてしまったわけですから、為すすべがなかったわけで、疑っている状態のまま「肯定」するしかなかったということだと思います。
ところが、「教育」はそれらの「芸術」が提供し続ける「極端」と同時に、それとは正反対の「常道」をも刷り込み続けましたから、典型的な「ダブル・バインド」が形成されてしまったわけですね。

現在、「芸術の世界」には、「芸術の20世紀」を疑っているのに、それを言ってはいけないような空気があって、それを疑う者は「芸術の世界」から遠ざかって行かざるを得ないような構造が出来上がってしまっているわけです。

つまり、ここにも、また「ダブル・バインド」が形成されてしまっているわけです。
そして、それが「人間の精神」を抑圧するように成っています。
ということは、「ダブル・バインド」の上に、また更に「ダブル・バインド」がかぶさってしまっているわけです。

第一段階の「ダブル・バインド」が【「破壊」=「創造」】ということで、その上に更に、【「極端」=「常道」】という第二段階目の「ダブル・バインド」が乗っかってしまっているわけです。

ということは、「現代芸術」が生み出している「ダブル・バインド」は、「二重」のさらに「二乗」、すなわち「2×2バインド」だということに成ります。

と、ここで話が長く成ったので、次の記事に続けます。




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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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