「現代美術」は「2×2バインド」(つづき)
前の記事の続きです。
「現代美術」は「ダブル・バインド」にハマってしまっているだけでなく、その上に更にもう一段「ダブル・バインド」が乗っかった状態、つまり「2×2バインド」に成っていると思うわけです。
(実際は、もっとたくさん乗っかってますけどね)
どこからを「現代美術」とするかは人によるんでしょうが、まぁ、大まかに言って百年ほど前の時代に、いま「現代美術」と言われているモノが出来て来た時に、「それまでの芸術」とは全く違う「新しい芸術」を創り出そうとしたということがあったわけですが、そこで「既成の芸術という概念」を破壊する必要があったのは確かなことだと思います。
そして、その「既成の芸術」を徹底的に破壊したのも間違いではなかったのかも知れませんが、でも、そこに落とし穴があったわけで、その落とし穴から抜け出そうとしなかったのは明らかに間違いであったと言わざるを得ないと思いますし、さらに、その間違いを改めずに百年以上も続けてしまったことは、もう「単なる間違い=過失の域」を逸脱していると思います。
しかも、それを今後もさらに延々と続けていくとなると、それは「虚構」や「悪徳」の領域に入って行くことに成るわけで、『出来ることなら早いとこ止めといたほうがよくないですか?』と思ってしまうわけなのです。
要するに、「破壊=創造」という「究極的な矛盾」が出来上がってしまっているわけですが、それを百年も続けてきたために「矛盾」であることがいつの間にか肯定されてしまって、むしろ、「矛盾していないこと」の方が『そんなのは芸術じゃないよ!』とか『そういうのは、もう古くさいんだよ!』と言われる羽目に成っているわけです。
つまり、「現在形の芸術」においては、どこかに「オカシナ所」が無いと『ナントナク新しくない感じ?』というような状態に成ってしまっていて、まさに「破壊=創造」という「ダブル・バインド」の上に、さらに、それが肯定されるという「再ダブル・バインド」が乗っかったことで「矛盾していること」の方が正しくて「矛盾が無いこと」の方が間違っているというような、どう考えても説明不能な状態が出来上がってしまっているわけです。
なんで、こんな状態の「現代美術」が「芸術」という枠組みを維持していられるのか?と言えば、”すべてのことが矛盾している”からです。
ありとあらゆることが矛盾していると、その中に投入された「たった一つのマトモなこと」だけが浮き立って、むしろ「オカシナこと」に見えてしまうわけですねぇ。
当然、「矛盾していること」は周りのモノと同じですから馴染んでしまって誰にも意識されずに、その矛盾も追及されることはほとんどないわけです。
そういう「オカシナ所=違和感」を「芸術」として肯定的に捉える人が居ること自体がワルイということは無いと思いますが、『それじゃないと「現在形の芸術」とみなされない』というのはやはり無理がありますし、第一、自由なのか不自由なのかもわからないわけで、そこにも、また「自由=不自由」という「ダブル・バインド」が出来上がっていくことに成るわけです。
一度嘘をつくと、それをフォローするために、さらに嘘をつかなくてはならなくなるのと同じで、「矛盾」も一つの「矛盾」を肯定してしまうと、その「矛盾」を肯定し続けるために他のことも「矛盾」させるように成ります。
そして、それを百年以上続けて来た結果、「すべてのことが矛盾しているという形」で安定しているというのが、「現在の現代美術」だと思います。
でも、過去の話はどうでもいいんです。
これからも、この状態を続けていくのか?ということです。
それらの「すべての矛盾」を正せば、多大な利益を失う人が出てしまうでしょう。
利益ならまだいいでしょうが、とてつもない損失を追うことに成る人も出るでしょうね。
『どうしますか?』
『やめときますか?』
私はやらなきゃいけないと思いますよ。
だから、一人でもやるわけですね。
一人だと、「とてつもない損失」の「天文学的数字分の一くらいの損失」で済むわけです。
『そりゃ、ヨカッタ、ヨカッタ』
でも、私個人にしてみれば、完全に「宇宙規模の損失」なんですけどね。
『あら、やっぱり、ヨクナカッタ、ヨクナカッタ』
とにかく、これはなんとかしといた方がいいと思いますね。
大企業が倒産した時のような感じで、「国」がフォローするという前提条件を作ってでも、なんとかしないとイケナイことだと思いますよ。
「一つの国」だけじゃなくて国際的な連携も必要に成るでしょうが、まず初めに「どこかの国」がやらないと始まらないでしょうね。
ということで、「どこかの国」ではなくて、「どこかのオッサン」が一人でやっておりますです。ハイ。
誰からも相手にしてもらえませんが。
『それでも、自分だけは、ヨカッタ、ヨカッタ』
そんな風に思っているわけです。
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