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「全員参加のテロリズム」:「被害者」は居ない



「テロリズム」は良くないということに成っていますが、もしも「被害者がいないテロリズム」があったら、それでもやっぱり「テロ」は悪いことなんでしょうか?
というか、そもそも「テロ」が悪いのは「道理」の問題なんでしょうか?それとも「実害」の問題なんでしょうか?


まぁ、「善悪」ってもの自体が「実害」から発生しているとも言えるし、「実害」なんかよりも遥かに根源的な「善悪の規準」があって(たとえば「宗教的な道徳」などですね)、それに基づいて「善悪」が決まっていると言う考え方の人も居るでしょうから、そこに話を持っていくと、いつまでたっても抜け出せなくなりそうなので、不本意ながらそこは飛ばします。


取り敢えず、「全員参加のテロリズム」と言うモノが想定できるのか?ということを考えてみたわけです。

つまり、社会的な「常識」とか「「権威」とか「道徳」とか「序列」とかと言った「既成概念」を、やや力ずくな感じで覆すときに、その「テロ」にみんなが参加した場合は、「被害者」は居なく成るわけです。

『なに言ってるんだ、全員が参加したら相手がいないだろ!』

いや、「相手」は「人間」ではなく「社会」なんです。
私は、「社会」には「人間の意思」とは別の「社会の意思」があると思っているんですねぇ。
だから、「人間」が「社会」に対抗して何かを行う時に、必ずしも「相手」が「人間」であるとは限らないと思うわけです。

「常識」や「権威」などのように、いつの間にか社会の中に出来上がってしまって「定理」のように流通してしまっている「既成概念」というものは、その「概念」が出来る過程の時期までは「人間の行為」であったはずですが、それが「定説化」して「絶対法則」のように成ってしまった後は、もう、そこに必ずしも「人間の意思」が関わっていなくても遂行されていくわけで、「人間」は「自分の意思」でそれを行っているというよりは「社会の意思」に従ってそれを『やらされている』と言うべきだと思いますね。

だから、そういう強固に出来上がてしまった「既成概念」から抜け出そうとする場合は、「人間同士」がつぶし合って「同士討ち」に成ってしまっては上手くいかないわけで、大多数の人がそこに「テロリスト」として参加して「社会の意思」を打倒するというのが一番手っ取り早いわけです。

まぁ、そんなことから「全員参加のテロリズム」:「被害者は居ない」ということを言ってみたわけです。

こう言う考え方で「テロ」という言葉を捉えていけば、もしかすると、今行われているような本当に暴力的で破壊的な「テロ」って言うモノは無くなっていくかもしれません。


ハッキリ言って、今行われている「テロ」が自滅的な行為であることは「テロリスト自身」が一番よくわかっていると思います。
それでも「テロ」を行うのは、それぞれに切迫した事情があるんでしょうが、今のやり方じゃドンドン賛同者が少なく成って行って、最終的には必ず自滅していくことにしかなりません。
しかも「被害者」が出ます。

今の「テロリズム」の致命的な欠陥は、人間同士が「同士討ち」をやってしまっているところです。
「人間VS社会」の形で「テロ」を起こさないと「テロ」が成果を上げることはありません。
しかも、ほとんど「被害者」が出ません。
「被害」を受けるのは「人間」ではなく「社会」ですから。
しかし、「社会」は「秩序」や「規則」に過ぎませんから、変化しても誰も「被害」を受けることは無いわけです。
ただ単に「無秩序」に成らなければいいわけですから、「人間にとって都合のいい秩序」を設定した方がトクですね。


そして実を言うと、「芸術の20世紀」が行ったことが、人類の歴史の中で最もこれに近いことだったんじゃないかと思うわけです。
つまり、「芸術の20世紀」は、一種の「非暴力的なテロ行為」であって、「既成概念の破壊」であったということですね。

でも、いろんなところがチョットづつズレちゃったんだと思います。
惜しかったですねぇ。
非暴力的ではあったと思いますが、賛同者が少ないうちに急激に進めたために、結果的に「同士討ち」になってしまいました。

そして、たまたまその「同士討ち」に勝った者が「芸術の世界」の中で主導的な立ち場を得ることに成り、そういう人たちの言ったことが「新たな既成概念」と成ってしまったわけです。


それで、今でもいろいろズレたままなので、「芸術」においても「社会」においても、いまだに「力ずくのテロリズム」が無くなりません。

だったら、この「全員参加のテロリズム」と言う考え方があれば、そこのところが少し良くなるんじゃないのかなと。


現在の「多数決型のデモクラシー(民主主義)」じゃもうダメだと思いますよ。
だって、そこで「多数決」に参加しているのは「人間の意思」ではなく「社会の意思」ですから。

「社会」は「体制」ですから「多数決」においては常勝です。
「個人」は問題外ですね。
だから、「個人=人間」が喜ぶようにするには「社会の意思」を打倒しなければならないわけで、それには「テロリズム」的な手法が必要に成るというわけです。
なにせ相手が「体制」ですから、それを圧倒しなければならないわけですから、でも「被害者」は出したくないわけですから。

そうなると、やっぱり「全員参加のテロリズム」なんじゃないの? 
「被害者」も出ないわけだし。
「ニュータイプの革命」ってことで。
いいんじゃないの?


そんな風に思ったわけですね。



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99:
※96
Takeoさんコメントありがとうございます。

私の記事は「理想論」のような話であることが多いです。
実現可能かどうか?とか、実際にそれが実現した時に問題が出て来るんじゃないか?というようなことは、すっ飛ばしていることが多いんですね。

要するに、人間のやることなんてどうせ大したことないし、考えることだってチマチマしたことなんだから、せめて話くらいは「理想」や「極論」でもいいんじゃないか?という感じですね。

この記事も、そういう話の一つで、実現性ということはあまり重視していません。

という前提での話ですけど、まず、この話は「人間の意思」とはカナリチガウ「社会の意思」が存在しているということを前提としています。

たとえば、10人の人が話し合って何かを決める時にいくら話し合ってもなかなか結論が出ずに、挙句の果てに、最後に出た結論が10人の誰ひとりも支持していなかった結論になってしまうということがよくありますよね。

つまり、そこには「個人の意思」を無視した「集団の意思」が存在してしまったということです。
そして、その「集団」が大規模化すると、その「集団の意思」が暴走するように成って、結果的にはほぼすべてのケースで「個人の意思」が無視されて、冒涜されるように成ってしまうわけです。
これが現在の社会の実状ですね。

つまり、現在の「民主主義」というのは「社会の意思」という「誰の意思でもない意思」によって「個人」がコントロールされるような、そう言う「民主主義」であるということです。


つまり、「社会」というモノ自体が「個人」とは相いれないモノであって、、どのような「社会」であっても「社会」を尊重すれば、必ず「全体主義」に近づいていってしまいます。
そこで、一番アホらしいことは、その「体制」を牛耳っている人たちも大したトクを得ていないということです。
もともと、「誰の意思でもない意思」にコントロールされた結果ですから、誰も得する人が居ないのは当然と言えば当然なわけです。

※人間は自らの発展の歴史の中で、「個人」よりも「社会優先」であることを常に選択し続けてきました。
それこそが「全体主義」の本質だと思います。
要するに、それがそれなりには必要であったわけですね。
でも、もう、それが完全に必要なくなってしまっているわけです。
そういう不必要なモノを残しているから弊害が大きくなるんでしょうね。

その中で地面にこぼれた米粒をかき集めて拾わされているようなことを、自分たちこそが「甘い汁を吸っていい思いをしている」と勘違いしている人たちが「世の中を牛耳っている人」と言われていて、「民衆」も情けないことに、その「哀れな守銭奴」にあこがれていたりもするわけです。

『あんな風に社会の上層に行けたらいいなぁ』と思っているわけですね。
しかし、その「上層」こそが「餓鬼」の住む「地獄」でもあるわけで、昔だったら(つまり宗教が機能している時代であれば)そんなとき、『今にきっと天罰が下るから』と言われたわけですが、もはや「天罰」が機能している世の中では無くなってしまいましたし、実を言えば「天罰」はもう必要なく成っていて、その「上層」こそが「地獄」であり、その「甘い汁を吸うこと」こそが「血の池地獄に溺れること」や「釜茹で地獄の煮え湯を飲まされること」でもあるということが、すでに「天罰」なわけだし、そのことに『あれ?俺たちってトクしてない??』と気づくことこそがまさに「クモの糸」なわけです。

というわけで、この話は「社会」よりも「個人」を優先したうえで、その「個人の意思」は保存されたままの状態での「社会という全体」に対する「テロリズム」というお話であるわけです。

つまりは、「全体」VS「個」という対立の構図においての「自由な個の集まり」を「全員」と言っています。

だから、細かい意見の違いを統一するということではありません。
「社会」というモノが、自分たち「個人」を阻害するモノであり、常に「個人」を「部品」として看做してくるものであるということを踏まえて、そういう「どう考えても有害な社会=全体」を「個人」が打倒してやろうじゃないか?
そう言うことにだったら、「自由な個人」が、もしかしたら「全員参加」出来るかもね?という極めて空想的かつ実現不可能的かつ私的にはとっても面白い的な話ということですね。

では、また。



96:
こんばんは。

社会を構成している全員の意思の統一がとれて、現行の「社会」「既成概念」を「敵」と見做した時点で、既にテロは成されたのではありませんか?

けれども、ある秩序が壊された後には、また別の秩序が生み出されます。Aという体制が壊されたのちに建ち上がったBという社会。それがまったく誰にも不満も不平等もない新秩序だという保証はどこにあるのでしょうか?

「個」「個人」というのは、他の「個人」との差異を意味します。それらすべての意思の統一というものが仮にあるとすれば、それこそ全体主義でないでしょうか?と思うわけです^^





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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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