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「幸福」は「感覚」ではなく「論理」なんじゃないか?



「幸福」って「感覚的なモノ」だと思っていて、疑ったことが無かったんですけど、この前ふと思ったのは『幸福ってホントは論理的なモノなんじゃないの?』ということなんですね。

たとえば、二人の子供が居る時に、二人とも「同じ食べ物」をもらえば二人の「幸福」はほぼ同じに成りますが、もらえる「食べ物の量」に差があった場合は、少なかった方の子は「不幸」で、多くもらった子が「幸福」に成るわけです。
(まぁ、単純に言うとっていうことですけどね。以下同様に)

これは、「二人前の食べ物」を二人で分ける時の話ですが、「三人分の食べ物」がある場合はどうなるでしょう?

「三人分の食べ物」を一人の子には「二人前」もう一人の子には「一人前」与えた場合は、「一人前」もらった方の子もお腹をいっぱいにするには十分です。
「二人前」もらった方の子は「一人前」残すだけで、大したトクもありません。

それなのに、おそらくは、それでもやっぱり「多くもらった子」は「幸福」に成り「少なくもらった子」は「不幸」に成るわけです。
というよりも、「二人前」を分けたときの「幸福や不幸」よりも、「三人前」を分けたときの「幸福や不幸」の方が大きいこともあると思うわけです。

「二人前」の時の「幸福や不幸」は「動物としての幸福や不幸」ですが、「三人前」の時の「幸福や不幸」は「人間としての幸福や不幸」です。
でも、「幸福や不幸」自体が「人間的なモノ」だと思いますから、「人間としての幸福や不幸」の方を大きく感じるわけですね。
(と言っても人間も動物ですから、どっちもどっちなわけですけどね)

まぁ、こういうのが「幸福」を「感覚的なモノ」だと思う理由なんだと思います。
つまり、実質的な価値とか物質的なソントクと必ずしも関係なく「幸福や不幸」が「感じ方」で決まっているわけですね。

『お腹が減っていて不幸だ』というのも「感覚」ですし、『お腹」いっぱいで幸福だ』と言うのも「感覚」です。
それと同じように、『自分の方が多くもらえて幸福だ』というのも「感覚」で、『自分の方が少なくて不幸だ』と思うのも「感覚」です。
「動物的な感覚」と「人間的な感覚」ということに成るわけです。

と、ここまでは「幸福」=「感覚」ということに成るわけなんですが、でも、人間にはその先があります。
つまり、それが「論理」ということに成るわけですね。

例えば、「三人分」のうち「二人前」をもらった子が、もう一人の子に『これ余ってるんだけど、キミもう少し食べるかい?』と聞いた場合、聞かれた方の子はきっと「幸福」が増えるんじゃないかと思います。
「一人前でお腹いっぱいに成った幸福」だけだったのが、「思いやり」という「人間的な幸福」ももらったわけですから。

でも、実はもっと「幸福」が増えるのは『もう少し食べるかい?』と聞いた方の子なんです。
自分の食べる分がキープされている状況で、人に分け与えることが出来るというのは、とても「幸福」なことなんだと思います。
要するに、人間にとって『人の役に立ちたい』っていう気持ちが最も大きい「幸福のモト」なんじゃないかと思うわけです。


たとえば、人間が仕事に生きがいを見出すのも『人の役に立ちたい』ということの表れだと思いますし、スポーツでも勉学でもほとんどのことが『人の役に立ちたい』ということの現れなんじゃないかと思います。

つまり、「幸福」は「人間的な幸福」に成ればなるほど「奉仕的」に成って行くんだと思うわけですね。
「欲求」が満たされるだけだと、「動物的な幸福」は得られても「人間的な幸福」は得られません。
「人間的な幸福」は、どこかに「奉仕」や「献身」という「一種の犠牲」を求められるものなのかも知れませんね。

上の子供たちの例では「犠牲」が無い状況なわけですが、そこを追求していけば、最終的に自分はソンをしてでも「奉仕」や「献身」をして「幸福」を得ようということに成るわけです。

つまり、「得ること」によって「幸福」に成っていたはずなのに、「人間的な幸福」を追っていくと、「失うこと」でしか「それ以上の幸福」が得られなくなるというターニング・ポイントがあるんだと思います。

そして、そのポイントが「感覚」と「論理」が入れ替わるポイントでもあるということですね。

つまり、「感覚」によって「幸福」を感じ取るというよりも、「論理」によって「幸福」を理解する必要が出て来るんだと思います。
「感覚」で感じる部分だけだと失ったモノを『惜しい』と思ってしまいますから「幸福」に成り切れないわけですね。
だから、「論理」によって「失った物質」よりも「得られた幸福」の方が大きいんだと理解する必要があるわけです。

ということで、「人間の幸福」は、時に「論理」でもあるのかなと。

そんな風に思ったわけなのです。
役には立ちません。        
                           


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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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