FC2ブログ

「感動」は「一方的に受け取るもの」ではなく、「鑑賞者の能動的な行為」でもある



「感動」を「完全に受動的な行為」だと考えてしまうことがあるわけですけど、本来、「感動」はどちらかと言えば「能動的な行為」であって、「能動的な鑑賞」という「鑑賞者による積極的な行為」からしか生まれないモノなんじゃないかと思うわけです。


確かに「鑑賞」はある意味では「受け身の行為」なんでしょうが、その「受け身」をどこかのポイントで「能動的な鑑賞」という鑑賞者側の行為に切り替えない限りは「感動」を得ることは出来ないんじゃないかなと思うわけなんですねぇ。

少なくとも、現在の芸術の在り方を前提にするなら、何も考えずに、ただ一方的に受け身の立場で「鑑賞」したとしても、「ただ単に美しいもの」や「ただ単にオモシロイモノ」と出会うことはあっても、それが「感動」にまで行き着くことは無いと思うわけです。

「現在における感動」は「鑑賞者」が「芸術作品に注がれた力」に比例する力を使って能動的に鑑賞した時にだけ発生する現象だと思います。

かなり昔の時代ならば、何も考えずに、ボウっとして「鑑賞」していても「感動」を得られる場合もあったんじゃないかと思います。
つまり、その時代に「芸術が提供していた美しさ」も「芸術に期待されていた美しさ」も、どちらも、人間が生まれながらに、ほぼ無条件で『美しい!』と感じるような美しさだったということですね。
だから、敢えて考えたり、見つけ出したりする必要が無かったわけです。
(その時点では、そう言うモノこそが「ホンモノの芸術」であったともいえるでしょうね)

しかし、現在の芸術で、そういう「単なる美しさ」を見たとしても「感動」まで届かなくなってしまったわけです。
『いや、そんなことは無い!』と言う人も居るでしょうが、これは「時代の流れ」ですから、誰にも逆らえないことだと思いますよ。

つまり、「ある一人の人が期待している美しさ」が、そういう美しさだったとしても、「時代が期待している美しさ」は、もう、そういう美しさではなくなってしまっているわけですから、一人の人の価値観だけではどうすることも出来ないことだということです。


それじゃあ、「現在の芸術が提供する美しさ」や「現在の芸術に期待される美しさ」とは、如何なるものなのか?

それは、「創作者の純粋性」であり「創作者の核」なんだと思います。
そして、それは「鑑賞者」にとっては、常に「他者」であり「異世界」であり「未知」であるわけです。
だから、なにも考えずに、ボウっとして見ているだけでそれが受け入れられることはあり得ません。

やはり、「他者」や「異世界」は「未知」ですから、常に「初遭遇」なわけで、『なんだかわからない』ハズですし、『なんか気持ちがザワザワする』に決まってます。
そうでなければ、それが「創作者の核」では無いということです。
「創作者の核」とはそう言うコトだと思いますし、「未知なモノ」とはそう言うモノなんだと思います。
要するに、落ち着かないんですね。

でも、だからと言って「落ち着かないこと」自体が「芸術」なわけではないし、そう言うモノが「感動」を提供してくれるとは限りません。
「創作者の核」は「鑑賞者」にとって、常に「落ち着かないモノ」、ですが、すべての「落ち着かないモノ」が「創作者の核」を持っているわけではありませんから、そういういろいろな「落ち着かないモノ」の中から、本物の「創作者の核」を持っているモノを見つけ出す作業が必要に成るというわけです。

なにせ、相手は「未知なモノ」なわけですから、いろいろと考えたり探したりしないと見つけられないということですね。

それで、結果的にそれを「見つけ出すという作業」が必要に成ってくるわけで、その「鑑賞者の積極的な行為」からしか「感動」は生まれないということですね。


まぁ、そんな面倒なことをしなくても「美しいモノ」も「オモシロイモノ」も見ることは出来るわけなんですけどね。
でも、なかなか「感動」にまで行き着くことは出来ないと思います。
だって、「異世界」や「他者」を「未知」のまま『オモシロイよね』とか『いいんじゃない?もしかして』とか『うんうん、見ようによっては美しいなり!?』などと言っているだけということに成るわけですから、それらは「感動」とはチガウでしょう?
「ワカラナイモノ」で「感動」できる人ってほとんどいないと思いますね。

『理解する必要なんかないんだ!感じるだけでイイんだ!!』
これ、間違ってると思います。
というか、勢いだけで誤魔化してると思いますよ。
『間違ってる』ならまだしも『誤魔化してる』はダメでしょ?
やはり、少なくとも、まったくワカラナイモノではなかなか感動できないと思いますね。


それから、「古い時代の芸術作品」を見ることで「感動」することは可能だと思いますが、それはあくまで「古い時代の感動」であって、「現時点での感動」ではないと思います。

たとえば、『モナリザ』を見て「感動」する人はいるでしょうが、その人は『モナリザ』が古い時代の絵であることを知って見ているわけです。
つまり、その人は数百年前の時代を含めて『モナリザ』を「鑑賞」しているわけですが、「現代」に暮らしていながら、その「時代」のいい所だけを見て「感動」しているわけですから、それを「現代に暮らしている人」が「現代の作品」を見て「感動すること」に、そのまま当てはめることは出来ないと思うわけですね。

現代に生きていても、「時代劇」を見て楽しむことは出来ますが、それはその時代に生きていることとは全く違うことですし、「現代劇」を見ることとも違うことです。
本当に自分がその時代に行って、「水飲み百姓」に成ってもかまわないという覚悟があって「時代劇」を見ているわけではないわけですし、今の時代が『街中でいきなり切り合いが展開されるような世の中に成れば面白いだろうなぁ』ということでもありません。
だから、「娯楽」の域を出ることは出来ないわけです。

もしも、「娯楽」以上を望むならば、そういう「時代」を丸ごと受け入れる必要に迫られるわけですね。
「感動」というモノには、そういう「真剣勝負」の面があるということです。


つまり、「古い時代の芸術」による「感動」を「現在の感動」にしたいのであれば、その「時代」を丸ごと受け入れるほどの覚悟が要求されることに成るということですね。
その時点で、「能動的な鑑賞」に切り替わることに成るわけです。
でも、ハッキリ言って、そんな「芸術鑑賞」をしてる人なんていないと思います。

そうなると、やっぱり、「現在の感動」を得るためには、「現在の芸術」に対する「能動的な鑑賞」という「鑑賞者の行為」が必要に成るのかなと。


そんなことを思いました。



関連記事

管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

QRコード

QR