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「コンポジションの多重化」は、今だからできること(今しかできないこと)



前の記事からの続きです。

「コンポジション(=構図や構成)」における「多重化」は、「平面」としての「絵」に「新たな空き領域」を提供してくれるんじゃないか?
そして、その「空き領域」は現在に至って、生み出されるべくして生み出された「芸術の領域」なのではないのか?
つまり、「抽象表現」というモノが一般的に抵抗なく受け入れられるようになりつつある現在に至って、その「一般化した抽象表現」を使うことで、はじめて生み出され、また、使うことができるようになった「領域」なんじゃないだろうか?
という話の続きです。


まず、はじめに、「具象表現」では「コンポジション」を「多重化」することができないということがあるわけです。

「具象表現」においては、主に「現実」が基準になりますから(「非現実」の中にも「具体性」は在り得ると思いますが、「現実」を伴わない「具体性」を使った表現を「具象表現」とは言えないと思うわけです)、「モノ」とか「空間」とか「距離」とか「大きさ」などという現実世界においては、消すことができない「存在」というものを無視することができないわけです。

ということは、「具象画」の中では「存在しているもの」を描く必要があるし、いかなるものでも「具象画」として描くということは、それが「存在していること」を基盤にして成り立っているということに成るわけです。

ということは、「具象画」においては、「ある一つの空間に存在しているもの」を描くことになるわけで、それは「同じ平面に描くこと」とほぼ同じことなわけですから、どうしても複数の平面を組み合わせて「多重化」するということが難しくなってしまうわけですね。

そこのところを、やや無理して、「具象表現」の中に「違う空間」や「複数の平面」を作り出すことは可能だと思いますが、どうしても無理がありますから、「いろいろな事象の多重化」というよりは「一つの事象のなかでの折衷」というような形になってしまうことが多いと思います。

 ※これは、たとえて言えば、夢の中で、いろいろなことがとっかえひっかえ
  現れてくるような感じになるわけで、それは「多重化」とは違うことだと
  思います。 
  それは、「コラージュ」のような感覚になると思いますが、「コラージュ」
  が面白いのは、「バラバラ」だからであって、融合された一つのものに成
  っていないという所なんじゃないかと思うわけです(夢も)。
  この場合の「多重化」は、そういう複数の局面を「融合する手段」として考
  えていますから、やはり少し違うものだと思います。

その反面、「具象画」の中に「非存在的なもの(存在であることを無視しているもの)」を描きこめば、それは「絵の中」とは認識されなくなってしまうわけで、当然「絵の外」という認識をされてしまうことになるわけです。

そうなると、つまり、「具象画」においては、「絵の中」と「絵の外」との間での「多重化」はできても、「絵の中」同士の「多重化」はできないということになるわけです。


ところが、その点、「抽象表現」を使った場合は、その絵に描かれているナニカが「存在している」という必要はありません。
というよりも、「非存在的なもの」を創り出す作業を「抽象」というんだと思いますから、むしろ「存在していること」を排除したいという感じもあるわけですね。
だから、「抽象画」の中では、「非存在的なもの」を「多重化」することが出来るわけですね。

そして、「存在」という束縛がない分だけ、自由な「多重化」ができるということです。
つまり、「ある一つの空間」とか「ある一つの世界観」とか「ある一つの事象」という「具象(具体)的なもの」に縛られることなく、その時々で、勝手に「事象」を入れ替えても、それを「一つの絵」の中で表現することができるということだと思うわけです。

まぁ、要するに、「具象表現」においては「多重化」が「違和感」につながってしまうわけですが、「抽象表現」においては、「多重化」が「違和感」を感じずに見られるということなんだと思います。
(「抽象画」は、「多重化」とは別の所での「違和感」を伴うわけですが)

以上のようなことから、「芸術の多重化」には「抽象表現」という形態が適していると思うわけですが、さらに言うと、その「抽象表現」が一般に普及して、かなりのところまで「違和感」なく受け入れられるようになった現在においてこそ、「芸術の多重化」がより有効になるということもあるんじゃないかと思うわけです。
(「抽象」は「違和感」を残したままの状態で飽きられて来ていると思いますけどね)

つまり、「抽象表現」が現在ほど普及していなかった頃までだったら、せっかく「違和感」なく「多重化」できても、それ以前に「抽象に対する違和感」が大きすぎて、意味がなかったんじゃないかと思うわけです。
(「芸術」は「鑑賞者」から拒否されてしまえば、そこで「行き止まり」ですからね)
(それでいて、「鑑賞者の評価」を目指してしまっても、やはり、そこで「行き止まり」です)

だから、「芸術の多重化」は、「今だからこそできること」なんじゃないかなと思うわけです。

さらに言うと、この時期を逸してしまうと、もしかすると、また意味を失ってしまうような気もするので、そうならないためも、それは「今しかできないこと」なのかもしれないなと。


そんなことを言いたかったわけなのです。



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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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