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「幻想美」と「理想美」



昔から、「芸術(美術)」は、「理想美」を追求してきたんだと思います。

でも、今の時代において、『その「理想美」って、どんなものなの?』と聞かれて、答えられる人がいるでしょうか?
この質問に答えられる人がほとんど居ないとすれば、おそらく、「今という時代」は「理想を失った時代」なんじゃないでしょうか?


この「理想を失った時代」を、「理想が相対化した時代」」という考え方に置き換えることもできるかもしれません。
つまり、「常に変わらないような普遍的な理想」ではなく「人それぞれの理想」や「その時々の理想」を追求するようになったという考え方もできるということですね。

でも、それだと『相対的なものを「理想」といえるのか?』という別の疑問が出てきてしまいますから、一応「理想を失った時代」といってもいいのかな?と思うわけですね。

さて、そこで、「今」が「理想を失った時代」であるとすれば、やはり「理想に代わるナニカ」が必要になるんじゃないだろうか?ということがあるわけです。
その「理想に代わるもの」を、「幻想」と考えてみたわけです。


かなり昔の時代までなら、「理想美」=「美しい人」とか、「理想美」=「美しい自然」などということに何の抵抗も感じなかったのかもしれませんが、「今」となるとどうでしょうか?

「今」でも、「美しい人」や「美しい自然」の中に「理想美」を見つけ出すことはできますし、「それ以上の美」が必要であるということでもないと思うわけですが、少なくとも「芸術(美術)」において、『それでいいのか?』と言われれば、『それでいいんです!』とは言いにくい状況があるわけです。

つまり、「理想が失われた時代」において「理想を追うこと」が「芸術」と成り得るのか?ということですね。

確かに、「芸術が追及するところの真実」について、「時代」とは無関係の「普遍的な真実」であると考えることはできるでしょう。
そう考えれば、「現在」が「理想を失った時代」であることと、「芸術が追及するもの」とは無関係であるとも言えるのかもしれません。

しかし、そういう考え方に基づいていくなら、常に、「すべての芸術」がほとんど同じものを追求していくことになってしまいます。
要するに、「一つの理想」に向かっていくということになるわけですね。
それは、一つの考え方としてあるでしょうし、そう言う考え方を否定するつもりはありませんが、実際には「芸術」には多様性もあっていいと思うわけで、多様性がなければ「芸術」は、とても狭くて堅苦しい、つまりは『こういうのが一番いいんだ!!』というような面白みのない世界になってしまうような気もします。

「芸術が古典的であった時代」までは、それでよかったのかもしれません。
そういう「時代」であれば、「理想」という一つの方向に向かっていく過程での、「小さなチガイ」の中にも、十分に多様性が感じられたんだと思います。
(だから、必ずしも「堅苦しくて面白みのない世界」に成らずにいられたんでしょうね)


しかし、そういう意味での多様性は、もうかなり前に出尽くしてしまいましたし、まさに、その結果こそが、現在の「理想を失った時代」なんだと思うわけです。

だとすれば、やはり、「理想に代わるもの」があっていいんじゃないのかなと。

それで、私の場合は、「幻想」を「理想に代わるもの」として考えているわけです。

「幻想」には、「実体」がないという欠点がありますが、実を言えば、それは「理想」も同じで、もともと「理想」にも「現実に存在するという意味での実体」は無いわけです。

その点については「理想」も「幻想」も似たようなものなのかも知れませんね。

で、どこが違うのか?

「現実」からたどって行って、より確固たる「頂点」を目指すのが「理想」なんだと思います。
それに対して、「現実」から「確固たる」を取り除いて、むしろ「曖昧」にしていくのが「幻想」なんじゃないでしょうか?

 ※もっと言えば、「現実的なこと」は考えずに「ゼロ」から「幻想の追求」を
  始めることもできるでしょう。
  そう考えれば、「抽象表現」は一種の「幻想美の追求」であるとも考えられ
  るような気がします。

だから、「理想」と聞いたときには、必ずしも『実体がない』とは思わないのに、「幻想」という言葉を聞くと「フワフワとした実体のないもの」という印象が出てきてしまうわけです。
まぁ、要するに、そこが「幻想の弱点」ではあるわけですね。

でも、いいところもあって、「幻想」は「曖昧」であるために、自由度が高いということがあるわけです。

「理想」は、一つの頂点に向かって行くという性質から、どうしても狭い領域に閉じ込められてしまう傾向があるのに対して、「幻想」は「曖昧」にしていくという性質があるわけですから、限りなく自由である可能性を持っていると言えなくもないわけです。

さて、そこで、その「曖昧」で「自由」だけど「実体が希薄」な「幻想」に、「実体」を与えることができれば、と考えるわけです。

もしも、「曖昧さ」や「自由度」を保ったまま、「幻想」に「実体」を与えることができれば、それは「理想を失った現在」において、「理想に代わるもの」に成り得るんじゃないかと思うわけですねぇ。

まぁ、私の場合そういう方向でやっております。
というだけの話なんですけどね。

一応、自分では、そういうのを「異・現実の世界」とか「異・リアリズム」とかと言っています。

そして、さらには、その「異・現実の世界感」を「日常空間」に持ち込んで、『日常生活と幻想の空間が一体化したらいいんじゃないの?』ということを「幻想の日常化計画」と言っているわけなのです。

まぁ、そんなわけで、お読みになられた方には『ナニ言ってるのか、サッパリわからなかった』のかもしれませんが、私といたしましては、一方的に、そんな方針でやっておりますです。ハイ。
(本当はわかってほしいです。うまく説明できないだけ)


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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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