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「家に飾りたくない絵」を家に飾ったら、どうなるのか?



先日、自分が描いた絵を、ある初老のご婦人にお見せしたことがあったんですが、その時、その方が『うふふ、この絵は家には飾りたくないわねぇ』と言っていたんですねぇ。

ごくごく個人的レベルではありますが、私にとっては・・・・大災害です。
(言う方は、何の気なしに言ってるんでしょうが、言われた方にしてみれば大惨事です)

しかも、たぶん、そのご婦人にまったく悪気はなかったと思いますし、なにせニコニコしながら言うもんですから、『あははぁ、まぁ、そぉーですよねぇ、こういうの、家に飾りたくはないですよねぇー、気持ち悪いしぃ』と言うしかなかったというわけです。
(「二次災害」的な?)

まぁ、それは、まったくもって個人的なことですから、とりあえず置いといて、そういう「家に飾りたくない絵」を家に飾ったらどうなるのか?と考えてみたわけです。


「家に飾りたくない絵」というのは、本当に家に飾らないほうがいいんでしょうか?
また、そういう絵は、どうして、家に飾りたくならないのでしょうか?
どいうことで、「家に飾りたい絵」と「家に飾りたくない絵」が分かれているんでしょうか?ということですね。


ここで、まず、言っておきたいのは、「絵」は「家に飾るための絵」でなければいけないのか?ということなんです。
つまり、「家に飾るのに最適な絵」が「いい絵」なのか?ということですね。

 ※ここでは「現在形の芸術を考える上で、その方向性に沿った絵」という意
  味で、そういう絵を「いい絵」と言うことにして話をすることにします。
  だから、「良く描けている絵」という意味ではありませんし、「評価され
  るべき絵」ということでもありません。

「家に飾るのに最適な絵」とは、要するに「インテリア性の優れた絵」ということだと思います。
果たして、「インテリア性の優れた絵」は、本当に「いい絵」なんでしょうか?

確かに、「インテリア性の優れた絵」は、人の心を落ち着かせて、楽しませてくれるでしょうが、それだけで「いい絵」の条件を満たしていると言えるのでしょうか?
もし、そうなら、「とてもセンスのいい壁紙」も「いい絵」と言うことができるということになります。
しかし、実際には、やはり「壁紙」は「いい絵」とは言えないわけですから、そこには、何か違いがあるわけです。

詰まるところ、「壁紙」と「いい絵」の違いは「生産されたもの」と「創作されたもの」の違いなんだと思うわけです。

どんなに、美しくてすばらしいものでも、「生産されたもの」は「製品」であって「作品」ではありません。
要するに、そこに作者の意識が込められていない、または、その意識が薄いということです。
だから、それを「その作者の作品」と呼ぶには、「不足な感じ」がするんだと思います。

ということは、「いい絵」の条件には「作者の意識が込められていること」という条件も含まれているということです。

ところが、そうなると、「いい絵」が「家に飾るのに最適な絵」とは限らなくなってきます。
『作者の意識が込められている』ということは、「その作者そのもの」に近くなりますから、「好き・嫌い」も分かれるでしょうし、インテリアとのなじみも無視されることになるわけで、当然「家に飾るのに最適な絵」とは言えなくなることが多くなるわけです。

そして、これは、「壁紙」だけでなく「作品として創作された絵」についても言えることで、「作品として創作された絵」であっても、「作者の意識」が希薄な作品もありますし、それが濃厚な作品もあるわけで、やはり「作者の意識」が濃い作品は「家に飾るのに最適な絵」とは言えない場合が多くなるわけです。

そういうことを前提にして考えると、「家に飾りたくない絵」とは、「インテリア性が低い絵」ということになりますが、そういう絵の中に「作者の意識が濃い絵」も含まれているということになるわけです。

さて、そこで、そういう「家に飾りたくない絵」を、もしも家に飾ったらどうなるのか?ということですね。

私は、「家に飾りたくない絵」こそ「いま家に飾る意味」があるんじゃないか?と思っているわけなのです。
これは、私が勝手に言っていることですから、もちろん『誰が、見たくもない絵を家に飾るんだよ!?』という方もいらっしゃるでしょうし、『そういう絵は美術館で見るものだ!』という考え方もあると思いますし、それらの考えもごく当然だとは思います。

しかし、「現在」ということを前提に考えた場合、人間にとって「幻想」の必要性が高くなってきているように思うわけです。
そして、その「幻想」に最も近いのが「芸術」であり、その中でも「作者の意識が濃い作品」なんではないのかなと思うわけです。

一昔前の時代までは、「幻想」を「日常」に持ち込む必要はなかったかもしれませんし、「幻想であること」よりも「美しいこと」や「技術的に完成されていること」の方が、人の心を癒していたんだと思います。
でも、「現在」ということになると、それでは足りないというか、違うというか、どこかがズレているように思うわけですね。
だからこそ、「現代美術」と言われているジャンルが「非日常」を演出しようとする傾向があるんだと思います。

でも、どちらかというと、「演出された非日常」ではなくて、「日常の中に普通に存在する非日常」が必要なんじゃないかなと思うわけです。
つまり、「非日常の日常化」ですね。
それを、私は「幻想の日常化」と呼んでいるわけです。
(「現在形の美術」で、主に行われているのは「非日常のエンターテイメント化」ですね)

そういう意味でも、『みんな「家に飾りたくない絵」こそ、どんどん家に飾ろうよ!』と言いたいわけです。

『ん?そう考えると、あのご婦人は褒めてくれていたと考えるべきなのか?』

「いえいえ、褒めてませんわよ、うふふ」

『・・・ですよね』

っていう・・・。




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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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