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「厭世観」と「厭社会観」



「厭世観」というと、あまりいいイメージがないんじゃないかと思います。
でも、それでいて、『「厭世観」なんてまったく意識したこともないよ』と言い切れる人も、また、そうたくさんはいないような気もするわけです。
(なにせ、この「ストレス社会」ですからねぇ)

でも、最近になって、「厭世観」とは少し違う「厭社会観」というモノがあるような気がして来ているわけです。
そして、その「厭世観」と「厭社会観」がいつの間にか入れ替わっていて、現在、「厭世観」と言われているものの多くが、実は「厭社会観」になってしまっているんじゃないかと思うわけです。
(と言っても、「厭社会観」という言葉は、ここで勝手に作った言葉ですけど)


「厭世観」と「厭社会観」の違いは、「厭世観」が「生きること」そのものに対する拒否感であるのに対して、「厭社会観」は、「自分が生きている社会」に対する拒否感と言っていいと思います。
まぁ、要するに、「厭世観」の方が、より根源的なものということですね。

本来の「厭世観」は「思考することの落とし穴」のようなものだと思います。
つまり、すべての人が、『人はなぜ生きるのか?』とか『何のために生きるのか?』とか『自分はなぜ生まれてきたのか?』などといった「思考すれば必ず行き当たる疑問」に対する答えを与えられずに生きているわけで、それこそが「考えて生きる」ということでもあるわけですから、その「落とし穴」にはまってしまって、「永遠に答えを得られない問い」を繰り返していれば、ほとんどの人が、そのことに疲弊してしまうでしょうし、そういう疲れ切った精神状態から、「生きること」に拒否反応が出てきてしまうのも、むしろ、普通のことなのかもしれません。

いずれにしても、「厭世観」は「考えて生きること」から発生するものだと思いますし、結果的には「やや厄介な状態」になってしまうのかもしれませんが、「考えて生きること」自体が悪いということはないと思いますので、その点においては、それほど忌み嫌うようなものでもないような気がするわけですね。
(「思慮深さ」の裏には、ほとんどの場合「厭世観」が隠れていたりしますから)

一方、「厭社会観」の方なんですが、社会が高度化した現在の社会においては、「生きること」と「社会の中で生きること」が、ほとんど区別できないほど一体化してしまっていて、「人間の生」が完全に「社会」によって包囲されているといってもいい状態になっているために、「厭世観」と「厭社会観」がすり替わってしまっていても、ほとんど意識されなることはないわけです。

 ※現代人は「社会の部品」として、生きさせられていると言ったら言い過ぎな
  んでしょうか?
  少なくとも、「社会」が今よりもルーズだったころまでは、「人間」に「社
  会の部品ではない部分」が、現在よりも多くあったと思います。
  「人間」は、さまざまな試行錯誤を繰り返して、自分たちの生活の中に、そ
  ういう「部品ではない部分」を、ようやく作りだしたわけです。
  つまりは、それこそが、人間の中の「人間的な部分」だと思います。
  ところが、そのせっかく作り出した「人間的な部分」を、「社会」が高度化
  し過ぎてしまったために失いつつあるというのが現状ではないでしょうか?
  それなのに、「教育」などによって、「人間」の中の「人間的な部分」がど
  んどん拡大されていきますから、それに対する「欲求」は高まっていく一方
  で、実際に生活の中にある「人間的な部分」はむしろ減少してしまっている
  のに、「人間的な部分に対する欲求」は拡大しているわけです。
  その結果、昔よりはるかに「楽な生活」や「豊かな情緒」の中に暮らしてい
  るのに、むしろ「人間の感覚」の中では、「人間の生」が完全に「社会」に
  拘束されてしまって、「人間の中の人間の部分」が息もできないほどの束縛
  を感じてしまうという意識が出来上がってしまっていると思うわけです。

  そういう「社会的束縛」に対する拒否反応を、ここでは「厭社会観」と言っ
  ています。
  
  
つまり、「人間」が「社会の中」でしか生きられなくなってしまっていて、「社会から離脱すること」は、現在においては「(部分的な)死」を意味しますから、本来の意味での「厭世観」がそれほど強くない人であっても、「社会」に対して「違和感」や「疎外感」といった拒否反応を感じている人にとっては、「厭社会観」的な意味での「厭世観」が発生してしまうというわけです。

だから、本来ならば「社会に対する不満」や「社会への拒否感」にとどまっているはずの「厭社会観」が「現在という時代」においては、さらに根源的な「厭世観」と、ほとんど同じものに成ってしまうわけです。

ところが、「社会に対する不満」なんて、誰の中にも必ずあるものですから、それがいきなり「究極の苦悩」ともいえる「厭世観」と直結してしまっているということは、「厭世観」から逃れられる人がほとんどいなくなってしまうわけです。

しかも、本来の「厭世観」が、あくまで「知的な苦悩」であったのに対して、「厭社会観」の方はもっと実際的な「生きづらさ」であるわけですから、かえってこちらの方が厄介なくらいで、そこに、さらに本来の「厭世観」まで加わってしまう(区別できなくなる)可能性も高くなるわけですから、そこに捕らわれてしまった人はかなり厳しい状況になるんだと思います。

「現在の社会」で生きていくことを前提に考えた場合、この「厭社会観」から逃れる方法は、なかなか考え付きませんが、少なくとも、「厭世観」と「厭社会観」が、違うものであって、どちらも回避するのは難しいが、必要があって存在するようなものではないということが意識されていれば、どちらも「考えて生きることの一環」としてとらえられるような気がします。

少なくとも、「厭世観」は「生きること」の中にフィードバック(リサイクルと言ってもいいかもしれません)することができるものだと思います。
つまり、「厭世観」を持つことと、「生きること」は、常に相互に行き来する関係だと思いますし、それこそが「考えて生きる」ということだと思いますし、さらに、それは「哲学すること」ともいえるんじゃないかと思います。

一方の「厭社会観」は、さらに実際的な「生活術の中の一ジャンル」と捉えられるもののような気がしますね。
つまり、「厭社会観」を持つことによって、「社会」の中の「自分に不適合な部分」を見分けることが出来るようになれば、それを避けて生きていけるようになるということです。
(ただ、「不適合な部分」がけっこうたくさんあったりするんですけどね)

「厭世観」も「厭社会観」も、それらを全面的に押し広げていってしまうと生きにくくなりますが、むしろ、よくよく観察することで、「自分に適合する部分」を見つけ出すことは可能になるんじゃないのかなと。

そんなことから、この「ストレス社会」の中では、「厭世観」と「厭社会観」を区別していった方がいいんじゃないのかなと。


そんなことを考えてみました。
(実用性レベル=低)



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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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