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「世の中のデジタル化」による「人間のテシタル化」



世の中が全般的に、ヤタラメッタラ「デジタル化」してきているわけです。

これに対して、反発を感じている人も、特に何も感じていない人も、それなりに居ると思いますが、何よりも驚くことは、「デジタル化」を大歓迎している人が、かなりたくさんいるということなわけです。

つまり、このあまりにも極端に急激な「デジタル化現象」を「とても便利になった」と思っている人が、けっこうたくさんいるということには、どうしても驚愕せざるを得ないわけなのです。

 ※ここで「デジタル化」と言っているのは「デジタル技術」のことではなく「社
  会現象」としての「デジタル化」です。
  つまり、「情報の記号化」ということですね。
  「情報を記号化するシステム」が社会の中で、短期間のうちに、試されること
  なく、領域を拡大してしまったことを「社会現象」という意味で「デジタル化」
  と言っているわけです。

これは、なにも「デジタル化」に限ったことではなく、20世紀以降に成って現れてきた「技術」や「科学」などの「文明の利器」の類には全般的に言えることですが、それらの「新しいモノ」が、どれだけの「利益」に成っていて、どれだけの「不利益」に成っているのかが、かなり不明瞭なのにもかかわらず、とりあえず「新しいモノ」が現れると、もろ手を挙げて大賛成する人が、必ず相当数いるということが、私にはとても驚くべきことのように思えるわけなのです。

たとえば、「原子力」ですが、平和利用だけを考えた場合でも、「リスク」はかなり高いのに、『過去に製造された「核兵器」がどれだけで、その廃棄にどれだけの労力や費用が掛かって、それらが人類を含む地球環境にどれほどの影響を与えるのか?』
こんなこと、わかる人って居るんでしょうか?
そこに統計や試算なんて成り立つんでしょうか?

もちろん、既に存在している「核(原子力)」を、初めから無かったことにすることはできませんから、『今すぐ、非核化すべし!』ということを言っているわけではないんですが、少なくとも、それを「便利になったこと」と考えている人がたくさんいるという状況は”驚き”以外の何物でもありませんね。
(まぁ、これは反対する側にも言えることなんですけどね)

 ※もちろん、これには逆の立場からの話も成り立つと思います。
  核に反対する人は核廃棄物処理などの作業を自分で行うつもりなんでしょうか?
  もしも、その気がないなら、そこを考えてからじゃないと、いくら反対しても、だ
  れも「核」を廃棄することが出来ないということに成ります。
  (もしも、それを徹底してやるとすれば、「徴役制」が必要に成ると思いますよ)
  新しく「原発」や「核兵器」を作らないということはできますが、どんな形であっ
  ても「原子力」が存続しているということは、常に「核のリスク」が存在するとい
  うことに変わりはないわけです。
  (まぁ、完全に無くしたとしても、また作ることはできるんでしょうが)

  そういう状況の中で、『自分は処理作業はしないけど、反対!』というのは、説得
  力に欠けるようiな気がしますね。
  完全に平等な「国民の義務としての核廃棄作業」を制度化することが出来ない限り、
  「核廃棄」はできないと思いますね。
  つまり、「総理大臣」が「核廃棄作業」に回されるかもしれないということです。
  (こんな制度がある国に住んでみたいですねぇ)

  でも、「自分がソンなことは絶対にしない人達」が政治をやっているわけですから、
  そんな制度作るわけがありません。
  (政治家って、「自分が満足する世の中」を作るために成るんでしょ?)
  
  それから、その場合、天皇陛下はどういう扱いに成るんでしょうね?
  そう考えると、よくわかりますけど、「制度」が出来たとしても、まだ足りないと
  思いますねぇ。
  天皇陛下が、廃棄される核施設に送られるようなことがあれば、命がけで止める人
  が現れますよね。きっと。
  本人が行きたいといっても聞かない人が現れるでしょうね。きっと。
  その前に、たぶん「暴動」が起きると思いますけどね。いろんな所で。
  (『皇族廃止!』という話でもありませんよ。)

 ※それから、これは「核」のような「リスクが見えやすい技術」に関してだけ言える
  ことでもないと思います。
  例えば、「自動車」や「飛行機」を例にとっても、それらによる事故で命を落とし
  ている人の数は、それらが十分に「リスクの高い技術」であるということを示して
  いるのは間違いのないことではないでしょうか?

  「原子力」などと違って、それらの「乗り物」を、人命にかかわるような重大な事
  故が起きない範囲で利用していくことは、十分に可能なことであるはずなのにもか
  かわらず、現状において、それをしようとしていないということは、すなわち、そ
  れらの「文明の利器」が「人間」よりも重要視されているということに他ならない
  わけで、それは、本末転倒であると言わざるを得ないことではないでしょうか?
  (はっきり言えば、「原子力」よりも、直接的に死んでいる人の数は多い)
  
  そういった意味を含めて、「文明を抑止する技術」まで備えた技術を、「高度な技
  術」と呼ぶようにしていくべきではないかと思います。

  以上、この記事とは直接関係のない「長すぎる注釈」でした。

そして、「核」以上に、「便利になったこと」が怪しいのが「デジタル化」だと思うわけなのです。

「核」の話だと、「原発事故」や「核兵器」の話になる場合が多いので、「反対派」がかなり多くなりますが、「デジタル化」に関しては、やはり「賛成派」が大多数だと思います。
(「原子力」は「最もリスクが見えやすい技術」で、「デジタル」は「最もリスクが見えにくい技術」です)

そこまでは、わかるんですが、「大賛成派」が、たくさん居るということが”驚き”なんですよね。
要するに、何の疑問も持っていない人が、けっこうたくさん居たりするというのが信じられないんですねぇ。
つまり、「デジタル文明」は、便利なだけのものであって、大きなリスクがないものだと思われているということが信じられないわけですねぇ。

でも、少なくとも、「デジタル化」によって「情報」は、管理されたり操作されたりする可能性が高くなったのは確かなことだと思いますし、それとは逆に、「ネット情報」ほどあてに成らないものは、この百年間ほどはなかったような気がします。
つまり、両方向のリスクがあるということですね。
(この辺で、すでに話が通じなくなってしまうことが多い)

要するに、「ネット情報」には、必ず何かしらの「オモワク」が入っているということですね。
一切「オモワク」を含まない「ネット情報」があっても、ほとんど人目に触れないようになってしまいます。

つまり、「情報」を「記号化」したことによって、管理したり操作したりすることに、ほとんど人的な労力を必要としなくなったわけです。
だから、「オモワク」を最小限のコストで全面的に押し出すことが出来るようになったということです。
それで、資本を持っている者の「オモワク」が極端に肥大化してしまうことに成るわけですね。
こう言ったことから、オモワクによって管理された「嘘ではないが真実性の極めて薄い情報」が大量に流通しているわけです。

さらに言うと、「デジタル化」は「記号化」であり「単純化」でもあるわけで、「デジタル化」された社会では、あらゆる局面において「単純化」が起きることに成るわけです。

「デジタル情報」」でも「アナログ情報」でも、問題なのは内容であって、「情報」が記号化されているか否かは内容とは無関係なはずなんですが、それはあくまで、「一件の情報」に関しての話で、「単純化」された情報が膨大な量になったときには、「内容」などはほとんど問題にされなくなって、とにかく「数量の多い情報」だけがすべてを覆いつくしてしまうわけです。

そして、「最も数量の多い情報」とは、常に「オモワクを含んだ情報」であり、「最も単純化された情報」なわけです。

これは、考えてみるとかなり恐ろしいことで、「情報」が「誰でも簡単に悪用できるもの」に成ったということです。

実際に「サイバー・テロ」という言葉が、普通に使われていたりするわけですし、それが、今言われているよりもさらに暴力的なものに成る可能性は十分にあるでしょう。

つまり、「原子力」と「核兵器」が不可分な存在であるのと同じように、「デジタル化」と「その暴力的な使用法」はセットなわけで、「暴力的な使用法」が開発されてから、『やっぱり、やめとけばよかったのに』と言っても、「核」と同じで、既に存在してしまったものを消すことはできないわけです。
(一度流れてしまった情報を完全に消すことはできません。これは意外と恐ろしいことだと思いますよ。)

これは、ほかのあらゆることにも当てはまることで、何をするにも「リスク」はつきものですから、「技術」が高度化するほどに、当然、「リスク」の方も高くなるわけで、「リスク」を先回りする習慣を身に着けていかないと、「技術」が進歩すればするほど面倒なことばかりが増えていくようになってしまうんじゃないでしょうか?

それに、「リスク」以前に、その「技術」が、『今の人類に必要なのか?』ということが、まったく問われていませんよね。
どう考えても不必要に高度化しているモノが多すぎるような気がするんですが、どうなんでしょうね?

といっても、「大賛成」の人は減りませんけどね。たぶん。

要するに、「進歩すること」や「高度化すること」が絶対命題に成っていて、それを止めようとすることは「ネガティブなこと」であって、「人類の進歩や向上」を妨げる「悪いこと」であるという「思い込み」が出来上がってしまっているような気がします。

でも、実際には、『今も、人類にとって進歩や向上は必要なのか?』ということは、だれ一人問いただそうとしないわけです。
つまり、そういう「前時代的な進歩・向上」が必要なのか?ということですけどね。

要するに、いまだに『進歩や発展が必要不可欠だ』と思っているのは、やや考え方が古いと思うんですけどね。
そういう、人達に限って、『自分たちは進歩的な考え方をしている!だからこそ、新しいものを率先して取り入れるんだ』と信じ込んでしまっているわけです。
まぁ、実際には、進歩的なわけではなくて、その場の流れに身を任せているだけなんだと思うんですけどね。

そして、なぜ、その流れに逆らう人が少ないのかといえば、「社会」や「経済」に要求されるからだと思います。
しかし、それらは、「社会の意思」や「カネの意思」に基づいた要求であって、「人間の意思」に基づいた欲求を無視していることが多いわけです。

つまり、「人間」が「社会」や「カネ」の「手下」にされてしまっているわけです。

というわけで、私は、この現象を「世の中のデジタル化」による「人間のテシタル化」と呼んでいるわけです。

『・・・・えっ、ダジャレ?』

『ええ』

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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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