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「自己表現」とは「自分に見えている世界」を描くこと



前の記事と似た話なんですが、「自己表現」は「自分に見えている世界を描くこと」でもあると思うわけです。


前の記事では、「自己表現」とは「逃れようのない自分」を表現することなんじゃないか?と書いたんですけど、人間は「自己の中」にも「逃れようのない自分」を持っていると思いますが、「外界の捉え方」にも、その「逃れようのない自分」が反映していると思うわけです。

実は、人間って、人によってけっこう「見えている世界」が違うんじゃないかと思うんですよね。

物質的なことで言えば、身長2メートルの人から見たら、身長160センチの人はすごく小さい人に見えているでしょうが、身長120センチの子供から見たら、大人はみな巨人です。

こういうのは人間だけでなく、ほかの動物でも同じことですが、人間の場合、さらに精神的な差が大きいわけで、その「精神的な世界観」には、際限がないようなところもありますから、そこにかなりの差が出てくるんだと思います。
つまり、人間の「精神世界」は肉体よりも個体差が大きいような気がするわけです。

これを「芸術」における「自己表現」に当てはめて考えた場合、どうなるのか?ということですね。

それぞれの人の持っている「精神的な世界観(=その人に見えている世界)」に、かなりの違いがあるとするならば、当然、そこから生み出される「自己表現」にも大きな違いが出てくるわけです。

たとえば、「芸術」の話に限らず、仕事上の事務的なやり取りをしている限りでは、『この人とは、見えている世界が違うんじゃないか?』とまで思うことは少ないですけど、話が、少しでも「精神的」に成ったとたんに、「世界観の差」が如実に表れてくることがよくありますよね。

そういう時には、それぞれの人が「自分に見えている世界」のことを話しているんだと思うわけです。
まぁ、ほとんどの場合は、かみ合いませんね。
でも、ほとんどの場合は、テキトーにかみ合ったことにしているわけです。
それでも、ほとんどの場合は、大した問題がないので『いんじゃないの?』ということですませることに、世の中では決まっているわけです。

まぁ、それはそれで『いんじゃないですか?』と思います。

でも、「芸術」でそれをやってしまうと、「芸術」がフヤケて行ってしまうよな気がしますので、一応、一所懸命に「芸術」をやっているつもりですので、やはり、自分が「芸術をフヤケさせる人」には成りたくないなと思いますので、まぁ、そこのところは少し頑張ってやって行きたいなと思っているわけです。

それで、やっぱり「自分に見えている世界」を描かないといけないだろうと思うわけなのです。

でも、これが、そう簡単でもなくて、前述のように生活の中では、いつも『テキトーにかみ合ったことにしている』わけですから、常にそういう見方をするような習慣が染みついてしまっているわけで、そこを見極めるのが非常に難しくなるわけです。

「自分に見えている世界」を描くというと、すんなりと見たままを描くというように聞こえてしまうかも知れませんが、実を言えば、「自分に見えている世界」が、いろいろな既成概念などと、ほとんど分け隔てなく整理もされずにゴチャマゼの状態で放り込まれているのが人間の知識や記憶なわけで、それをもとにして、その人の意識が「世界観」を再構成しないと、それを表現したり描いたりできないわけです。

つまり、「ただ単に、その人の目に映っている世界」と「その人が認識している世界」が、かなり違っていて、しかも、「その人が認識している世界」は、いろいろな「認識」が入り混じってしまっているので、その中から、「もっとも純粋な自分の判断による認識」を見つけ出すのは、意外と大変なことなんだと思います。

それで、ほとんどの人が、「独自の世界観」を持っているハズだし、その「独自な世界観」で捉えた「自分に見えている世界」を表現しているハズなのに、どこか均等な感じの作品が多くなってしまうんだと思います。

まず、なんと言っても、記憶や知識の中で、「自分に見えている世界」の記憶や知識と、「既成概念に影響された自分が見ている世界」の記憶や知識とを区別して、より分けるのが大変です。

なにせ、人間が生きていくには、そういった「既成概念」も必要不可欠で(例えば「言葉」だって一種の「既成概念」だろうし)、そういう「既成概念」を完全に排除してしまったら、おそらく、人間として生きていける人は居ないと思います。
(というか、それを「人間として生きている」とは言えなくなってしまう)

すでに、この段階で十分に難題なわけですが、前の記事で書いたことが、さらに困難な状況を生み出します。

要するに、人間は「ありのままの自分」をなかなか認められないんですねぇ。
だから、そういう「ありのままの自分」が持っている「独自の世界観」で見えた世界、つまりは、「自分に見えている世界」をそのまま表現してしまうと、「自分の中の醜い自分」や「自分の中の恥ずかしい自分」が丸出しに成ってしまうような気がして、逃げ出したくなるわけです。

そういうときに、「既成概念」を使うととても安心なんですね。
なんといっても、「既成概念」は、みんなの「共通概念」でもありますから、だれからも「後ろ指」刺されることもなくて、居心地がいいわけですよね。

そうなれば、わざわざ大変な「脳内仕分け作業」をして、わざわざ「本当の自分」を見つけ出して、わざわざ「自分に見えている世界」を描き出して、わざわざ他人から嫌われたり、馬鹿にされたりするようなことはしないのが普通だと思います。

しかし、これも前の記事に書いたことですが、そういう「本当の自分」から逃れられる人もまた居ないわけです。

さて、どっちをとりますか?
選択は、それぞれの人の自由です。

さて、「芸術」はどっちの人を選ぶでしょう?
「芸術の選択」は、人間には計り知れません。

一応、個人的には、「自己表現」とは「自分に見えている世界を描くこと」ということでやっていこうかなと。

出来る、出来ないは二の次ですね。

そんなこと、たいした問題でもないでしょ?


そんな風に思っています。


 ※追記
 
こういう話においては、とかく、「既成概念」に左右されずに「独自の判断」が出来る人というのは特別な人であって、「特別な才能」や「特別な環境」や「特別な素養」が与えられた、ごく一部の「特別な人間」であるということが言われることがありますが、けっしてそういう話ではありません。

誰の中にも「本当の自分」は居るはずです。
だから、その「本当の自分が見た世界」も、誰もが必ず持って居るに違いあいません。
そこまでは、すべての人に均等に与えられた「自分という才能」です。

その「自分という才能」の優劣を競う時代は、もうとっくに終わっています。
そこからは、その「本当の自分が見た世界」を如何に表現するかしかありません。

そこで、その人によって、「本当の自分が見た世界」を隠している「既成概念」に違いがあります。
多くの「既成概念」を植え付けられた人も居ますし、ある「既成概念」に強烈に縛り付けられている人も居ますが、そういう「既成概念」にあまりとらわれていない人も居ます。

一見すると、「既成概念」にとらわれていない人の方が、いいように見えますが、実はそうでもありません。
「既成概念」に縛られている人には、「既成概念」を乗り越えて「自己」を解放する機会が与えられているとも言えます。
つまり、多くの「既成概念」を持っている人ほど、多くの「解放の機会」を与えられているわけです。

もしも、「既成概念」を全く持っていない人がいたとすれば(実際は、そんな人は居ませんが)、その人は何の苦も無く「本当の自分が見た世界」を表現することが出来るでしょうが、もうその位置に「現在の芸術」はありません。
「現在の芸術」が、その人が「乗り越えたモノ」を提示するように命じてくるわけです。
だから、その人は、『ナニを乗り越え、ナニから解放されたのか』を示さなければならないわけです。
それが、「現在の芸術のある位置」ですから誰にもどうすることもできません。

だから、結果的には、むしろ、多くの「既成概念」に、しかも強烈に縛られている人の方が有利だと言ってもいいほどです。
でも、実際には、すべての人が、十分に多くの「既成概念」に、そして十分に強烈に拘束されながら生きていますので、そこでの有利・不利ということも全くないというのが「現在」と言う時代における「芸術」の在り様です。


つまり、あらゆることにおいて均等な機会が与えられているのが「現在の芸術」に他なりません。
(本来なら、そう成っているはずなんですけどね)

そんな中で、それぞれの人が、それぞれに違う「自分が見た世界」を表現するような、そんな「芸術の世界」が展開されていけば、そこに示された「様々な解放」によって、見た人の心もまた「解放」されるように成るだろうと。

そういう風に思うわけです。





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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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