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才能にも「質」と「量」がある



芸術やスポーツなどの話となると、どうしても「才能」ということが出て来るわけです。
つまり、どうしても「才能がある人」と「才能がない人」とに分けられてしまう傾向があるわけですね。

でも、これを「ある・ない」だけで捉えるのは、少し考え方の方向が間違っているように思うのです。

実は、才能にも「質」と「量」があって、その「量」については、そんなに大きな差はないのではないと思うわけです。
そして、その「質」については、一つ一つが、まったく違うものなのではないかとも思います。

ですから、「才能がある人」とか「才能がない人」と言う考え方には無理があると思うわけですね。

つまり、私は、皆それぞれ違う「質」の才能を同じ「量」づつ持っているのだと思うのです。


もちろん、芸術やスポーツなどの特定の分野に向いている人と向いていない人はいるでしょうが、それを、「才能がある」とか「才能がない」と言ってしまうと、それが「質」=「向き・不向き」の問題であって、「量」=「ある・ない」の問題ではないのに、「才能がある」側の人が一段上の位置に持っていかれてしまい、「才能がない」側の人が、低い位置に置かれてしまうということが起きてきてしまうわけです。

ですから、私はどうしても、この「才能がある」や「才能がない」ということばを、簡単に使う人を見ると、その人の言っていることのすべてが薄っぺらなものに聞こえてしまい、どんなに立派なことを言っていても、何の説得力も感じなくなってしまうわけなのです。

わたしは、この「才能と言う言葉」自体が、今はもう必要ないのじゃないかと思っているぐらいなのです。
少なくとも、才能にも「質」と「量」があるという前提で、この言葉が使われるべきではないのでしょうか?

例えば、その「量」について単純に比べられるものに置き換えて言えば、ごく普通の人の身長が150~180cmほどだとして、ギネス・ブックに載っているような人でさえ、230~240cm ぐらい(不確かですが)だったように思うわけです。

つまり、せいぜい1・5倍程度で、二倍にも届かないということです。

それでも、確かに2mを超えるような長身と言うのはひとつの「才能」だとは思うのですが、「才能がある」と言ってしまうと、せいぜい1・5倍だということを忘れてしまうのではないのかなと。

また、その「質」について言えば、誰もがみんな違う顔をしていることだけでも、『同じものがない』ということは、十分わかることじゃないのかなと。

いずれにしても、「才能」と言う言葉が一段偉い感じになってしまっていることによる弊害なんてない方がいいなと。
みんなに同じくらいの才能があるなんていう程度のことが、なんで当たり前にならないのかなと。


そんな風に思っているわけなのです。


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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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