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⑵ 新たに区別された≪真術≫について


 1. ≪真術≫を区別する理由


宣言文にあるように≪真術≫は「真実(真理と言ってもよいだろう)の追究」という、方向性を持つ芸術のための名称である。
敢えて、これを区別して扱うのには理由がある。


芸術の中には、心の最も深い部分(魂と言い換えることもできるかもしれない)に訴えかける領域が存在し、そういった領域を有していることこそが、芸術を芸術足らしめていることは確かなことであり、人の心に最も深い感動を生み出すことができるのも、そういった領域にある芸術に他ならない。

そういった「芸術」の中心とも言える必要不可欠な領域に、いま≪真術≫という名称を設定しようということなのである。

重要なはずの、その領域が、これまで確固たる形で区別されて来たようには思えない。
ただ単に、芸術と言った場合、芸術のどの領域を指しているのかが判然としなかった。
と言うより、これまで芸術をその中でさらに範疇わけすること自体が、タブー視される傾向があったように思う。

その結果芸術の核をなす部分がどこなのかが極めて曖昧となり、芸術の本質が何なのかが、まったくはっきりしなくなってしまっている。


さらには、これと同じことが「芸術の外郭」についても言えていて、「20世紀」以後、芸術という概念の「枠」は無際限に広げられ、今となっては「なんでも芸術」だし、「なんでもあり」だ。

その変容の過程で、『何をもって「芸術」とするのか』『「芸術」の中心はどこなのか』ということを追究し、芸術の中に更なるジャンルわけをすることは「了見の狭い」「無粋なこと」とされ、排除されてきたのではないだろうか。

それは、時として「芸術」の中心から離れれば離れるほど「最先端」で「芸術的」であるかのような錯覚を生み出すほどになっている。


この状態をこれ以上続ければ、「芸術」は限りなく、広げられ、薄められて、「芸術」と他のものは区別ができなくなってしまうだろうし、どこに「芸術の中心」が存在するのかもわからなくなってしまうだろう。

そこで、今、「芸術」を「完全な無規定」から救い出す必要性が高まっている。

もちろん、「芸術」を自由な状態に保つためには、「厳密な規定」を設定することは許されないだろう。
従って、「芸術の外郭」を規定することは困難であり、また、無理にそれを規定しようとすれば、結果的に「芸術における自由」は阻害され、「芸術」自体までもゆがめられてしまうだろう。

しかし、その条件の中でも、「完全な無規定」からは逃れるべきだろう。
「外郭」を規定せずに、それでも、ある程度の「位置」や「方向性」を示すことが出来れば、「芸術」は「完全な無規定」だけは免れることが出来るに違いない。

つまりは、「芸術の中心」の位置を決めておくことが必要となってきた。

私はそう思う。


以上の理由から、「芸術」を改めて現在必要な形で定義し直すとともに「芸術」という慣れ親しんだ言葉とは別に、私自身まだ耳慣れない≪真術≫という名称を創設し、それを「芸術の中心」に位置する領域として規定することをここに提案する。




これまでにも「純粋芸術(ファイン・アートなど)」と呼ばれる領域があり、ここで言う≪真術≫のような性質を持った芸術の多くは、この領域に入れられてきたと言ってよいだろう。

しかし「純粋芸術」という言葉をよく考えてみると、やや矛盾した所がある。
そもそも、芸術という言葉には、既に純粋という意味合いが含まれていないだろうか?

揚げ足取りをしようというわけではないのだが、「芸術」にすでに「純粋」が含まれているため、「純粋」をつけた意味があまりないのである。

せっかく、その言葉で「芸術」の中核を規定しようとしたのだが、その意図を理解しない人にとっては、それは何の意味も持たなかったようだ。
それどころか、むしろ、この”言葉の仕掛け”によって、「芸術の中核からは遠い芸術」に、「芸術の中核にある芸術」と同じ立場を与えることに成ってしまったのではないだろうか。
つまり、実際には区別できていなかったのに、区別されているような錯覚を生み出してしまったために、むしろ、結果的には、その「無選別」を肯定することに成ってしまったのではないだろうか。

もともと、「純粋な芸術」と「純粋でない芸術」の間に境界線を引いて芸術を区分するのは難しいだろう。
後に詳しく述べるが、「純粋性が濃厚な(芸術の中心に近い)芸術」から「純粋性が希薄な(芸術の中心から遠い)芸術まで」が、無段階に並んでいるということではないだろうか。

だから、そこに、「純粋性の有無」で一線を引くことはできないし、どれにも純粋性は含まれているので、「純粋芸術」という言葉では、「すべての芸術」が一括りにされてしまうのである。

ただし、これは、「芸術」を分け隔てなく、一括りにすることを批判しているわけではない。
しかし、そういう現状依存的で惰性的な無為・無策によって、「芸術の中心」が失われてしまうことを、危惧せざるを得ないということなのである。

これは、このような小さな”仕掛け”や”つまづき”が、「20世紀」という時代には、必ずと言っていいほど「誤謬の塊」になってしまうという「20世紀の誤謬」の一例だろう。


以上のようなことから、「芸術」という言葉とは別の、「新しい言葉」が必要だと判断したわけだ。



さて、そこで、なぜ「真実の追究」が出てくるのかというと、「真実」は「純粋」なだけではなく、「純粋以外の要素を含まない純粋」だからである。
つまり、「真実」を基準にすることによって「純粋」以外の要素を排除し、「芸術の中核にある芸術」だけを抽出して規定することができるのではないかと考えたわけだ。

そして、また、「真実」こそは人間の究極の命題であり、また「芸術」が「哲学」と双璧を成して、過去から、そしておそらく未来においても永遠に求め続けるべきものだからである。

「哲学」が論理や思考によって「真実(真理)」を追究」したのに対して、「芸術」は感性によってそれを表現してきた。
もちろん、「結論」や「完全」に到達した例は今もって存在しない。
なぜならば、「真実」こそ、人類にとっての「永遠不滅のテーマ」だからだ。

しかし、ここで問題は、人間が「真実」に到達することは不可能だと言うことだ。
「究極の命題」であり「永遠のテーマ」であるわけだから仕方ないのだと思う。


この点については受け入れざるを得ないだろう。
現在「芸術」や「哲学」に与えられた課題の中に「不可能への挑戦」が含まれてしまっているのだと思う。

むしろ、望んでこれに対峙する姿勢が必要なのであり、「現在の芸術」や「現在の哲学」において「安易」「簡単」「わかりやすい」を目指すことは、全く無意味なこととしか、わたしには思えない。

それらを目的とするのであれば、「芸術」・「哲学」以外の場でやればいいと思ってしまうのは、私の傲慢なのだろうか。

少なくとも、私には、敢えて「芸術」・「哲学」の場でそれらの「安直」を要求する側の意見の方が、よほどズレているとしか思えない。

また、作り手(創作者)の側にとっての「簡単」と受け手側(鑑賞者)にとっての「わかりやすい」は別物だ。
そして、どちらにとっても「簡単」や「わかりやすい」は最低限必要なことではあるが、それ以上は無用だ。
それは「わざわざ難しくしている」や「不必要にわかりにくい」でなければ良いと言う程度のことだろう。


それ以前に、「強烈に一発でわかる」ような≪芸術≫に出会ったとき、「簡単」「わかりやすい」などという陳腐なセリフは出てこないのではないのか?と問いたくなってしまうのである。

要するに、「簡単」で「わかりやすい」ことよりも「本物」であることのほうがはるかに重要であり、他のことは大した問題ではないのである。
難しければ何度でもやり直せばいいし、わかりにくければ少し立ち止まって考えればいいだけのことなのだから。

そして、その「本物」を「芸術の中心に向かうもの」として、規定しようと考えているということなのである。


上に述べたことを簡単にまとめておく。

「芸術」において、感動を生み出すことができる領域こそが、「芸術」を「芸術」足らしめている。
その領域では「真実の追究」が必要と考えられる。

その「真実の追究」は困難であり、安易な姿勢で理解しようとすれば誤謬に陥る恐れが高い。
そこで、その領域を特に区別して規定する必要があると判断したため、≪真術≫というまだ誤謬にさらされていない新しい名称を設け、より狭義の定義づけを行った。











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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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