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2.≪新生芸術の20世紀≫における芸術の仮定義


さて、≪真術≫以前に、≪芸術≫という分野は、今まで正しく定義されてきたといえるのだろうか。
私は、まずこの点について懐疑的なのである。


≪芸術≫という伝統ある文化につての定義づけが、今もってなされていないなどとは考えづらいのだが、どうやらそういうことらい。



19世紀以前においても、漠然とした「芸術の定義」はあったのだろうが、人々の価値観の変化が緩やかであったために、特に、強く意識して厳しく「芸術の定義」を吟味しなおす必要がなかったのではないだろうか。
(おそらく曖昧さを残しながらも少しづつ修正されていたものと思われる)

ところが、その習慣を維持したまま、「20世紀」の急激な意識変革にさらされたために、20世紀の人々は、「芸術の定義」をその都度納得がいく形で更新することができなかったのだろう。

一つの「定義」や「理念」が理解できないうちに、次の「定義」や「理念」を押し付けられ続けて、しかも次から次へとそのペースは加速する一方で、ついて行かれなくなり、しまいには「理解すること」自体が諦められてしまったに違いない。
当然の結果として、「芸術」はいつの間にかズルズルと曖昧になり、後ずさりするように、その範囲を野放図に広げてしまった。

そして数十年を経て『なんでも芸術だ』『「新しいことをやったもん勝ちだ』になってしまったのではないだろうか。


それまで、漠然と『技術や美的感覚に優れたものが芸術に違いない』と思っていたのに、突然、『こんなに醜くても芸術なんですよ』『こんなにヘタクソでも芸術ですよ』『こんなにクダラナイモノでも、あなたは芸術じゃないと証明できるのですか?』とまくしたてられて、芸術以外の場面(科学や工業技術など)でも価値観の逆転を痛感させられていた人々は、『やはりこれも認めるべきなのだろう』『取りあえず芸術だと言っておこう』と思ってしまったのではないだろうか。

そして、これが最悪だったのだが、『一度言ってしまったために引っ込みがつかなくなってしまった』のである。


その後は、誰もが「時代遅れの頑固者」「新しい感性が理解できないカワイソウな人」と思われるのが嫌で、「芸術の定義」を明確にしなくなり、そのかわりに「気の利いたキャッチコピーのような定義」が使われることで、益々「芸術の形」を曖昧にしていった。

それらの「キャッチコピー型定義」には各々オリジナリティーがあって、それぞれに一理あるものではあったのだと思う。
だが、それらは一人一人の意見に過ぎず、定義と呼ぶほどの普遍性を持つには至らなかった。

つまり、いろいろな人が入れ代わり立ち代わり『芸術とは〇〇である』とそれぞれ別のことを言ってしまったので、普遍的な定義が形成されなかったのだろう。
むしろ「オリジナル」が増えてゆく度に「定義」としての普遍性が失われていったのである。
そんなところが主な流れではなかったかと思う。

※「20世紀初頭」の時点で、もはや「芸術の外郭」を規定するのは不可能になっていたと思われる。
つまり、「一元的な方向性」を捨てて、「多元的な方向性」を目指した時点で、「芸術」のような「表現媒体」に関しては、「外郭」を規定することが不可能に成る。
要するに「芸術でないもの」を設定できなくなるということだ。
一つでも「芸術でないもの」を設定してしまえば、その対極に「最も芸術であるもの」が設定されることに成ってしまい、結果的に「一元的な方向性」が発生してしまうので、もとの「一元論」に戻ってしまうわけだ。
しかし、「外郭」を規定することが不可能になったということが、まったく把握されていなかったために、いろいろな人が「いろいろな芸術とは」を提案し続けることに成り、上記のような、「無規定」の状態を創り出してしまったのだろう。



せっかく≪真術≫を新設したのに、それを包括する≪芸術≫の解釈が曖昧ではあまりに心もとない。

そこで≪新生芸術≫と≪真術≫のためには、普遍性のある「芸術の定義」が必要不可欠であると判断し、今、私なりに考えられる範囲での定義を記しておこうと思う。

ただし、上記のように、現在は「芸術の外郭」を規定することは不可能であるので、これは、あくまで「芸術の中心」を規定しようとするものである。
本来「定義」とは、「外郭を規定すること」つまり、「ソノモノとソノモノではないモノの間に境界線を引くこと」だと思うが、現状では、それは不可能であり、やむを得ず「中心」を規定することしかできないということだ。

従って、今のところ、これはまだ「身勝手な自説」の一つに過ぎない。
その意味では、「20世紀における定義」と同じようなものである。
だからこそ、「芸術の仮定義」としているわけだ。

だから、≪新生芸術の20世紀≫がスタートしてから、その過程において、普遍的な時代の芸術概念が固まってゆくことを期待している。


   ≪新生芸術の20世紀≫における芸術の仮定義


『 芸術とは、作者の「創作衝動」によって創作され、作者の「能力の限度」に応じて完成とされた創作物とその創作過程である 』




♯1つまり、純粋に創作衝動によって作られたものは芸術(の中心)に近く、他の要素によって左右されたものほど芸術(の中心)から遠い、そして作者の能力の限界に近いところが引き出されたものは芸術(の中心)に近く、それより手前で、投げ出されたものは芸術(の中心)から遠い、ということである。

♯2「どんな分野(ジャンル)か」とか「どの程度の完成度か」といったことは芸術であるか否かには関係ない。
能力の低い人が自己の限界に近いところに到達したのであれば、もしも、それが完成度の低いものであっても「芸術(の中心)に近い」ということになる。ただし、「能力の限界に近いこと」が作品上に表現されていてはじめて成り立つ話なので、むしろこれは難しく、完成度を上げていく中で能力の限度も高めていく方が、むしろ確実な方法かもしれない。

※以下、「芸術に近い」=「芸術の中心に近い」・「芸術から遠い」=「芸術の中心から遠い」
※ここで「芸術に近い」「芸術から遠い」は、「芸術である度合」(以下「芸術度」と呼ぶ)を判断するための指標であり、作品や作者の優劣を判断するための基準にはならない。

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「♯」以下の説明文にもあるように、この仮定義にはジャンルや完成度による基準を設けていない。
言い換えれば、、どんな種類のものでも芸術となりうるし、極めて簡単に作られたものでも芸術と名乗ることを許されるということである。

これは一見「20世紀」における芸術の扱われ方と似ているように見えるかもしれない。
確かに芸術という文化をより自由に広くとらえようとしたという点で似ているのだろう。

しかし、「♯」を付した説明文をよく読んでもらいたい。
ここで言うところの「芸術に近い」・「芸術から遠い」という言葉で言っていることとは、「どんなものでも芸術と言うことはできるけれど、芸術から限りなく遠いものを芸術と言って、何の意味があるのですか?」ということだ。

「20世紀」との最も大きな違いは「なんでも芸術だ」をやめて「なんでも芸術ととることも可能なのですが、あなたはどうしますか?」に変えたところだ。

つまり、芸術か否かの判断を鑑賞者に委ねたのだ。
(「鑑賞者」にも「芸術」に対峙するという形で参加する権利があるという意味で)

「20世紀の芸術」においては常に難解な芸術論が先行し、その間、一般の鑑賞者は蚊帳の外に置かれ、専門家なる人たちが一定の結論(場合によっては不可解な)に到達した後で、鑑賞者は、その≪天の声≫をすでに定説であるかのように聞かされて、眩暈がして思考が麻痺した状態で『さあ、この芸術をどう判断するんだ』と迫られ、しかたなく『すばらしい!』と言ってしまうという傾向があったように思う。

※ここで、難解であること自体が悪いことのように言われる傾向があるが、難解さは決定的な問題ではない。
一般人だって、そんなに理解力が無いわけではない。
実は、「上から言われる」ということが問題なのであって、「難解さ」は、その「上からの論理」の矛盾や論旨の強引さをごまかす為に使われていることが多い。
いや、むしろ、ほとんどと言ってもいいぐらいだろう。
そうだとすれば、理解力が足りないのは専門家のほうだったのかもしれない。


この「仮定義」は、そのような事態を繰り返さないために、上の立場から判断を下す権限を、「専門家なる人たち」から剥奪するためのものでもあるのである。


そして、この仮定義はもう少し正確にいうと、定義というよりも「芸術の物差し」なのだ。

この仮定義においては芸術と芸術でないものを分けるのではなく(本来定義とはそういうものかもしれないが)、「芸術の中心」に、より近いか遠いかを計測するわけだ。

但し、この「芸術の物差し」には目盛りに当たるものはない。
当然、使う人によって、また使い方によって、違う数値を導き出すことになる。
実は、これは、定義したことにほとんど意味がないということでもある。

しかし、現時点で、私はそれでいいと思っている。
≪作者の創作衝動≫と≪作者の能力の限度≫という二つのキーワード(指標)だけで十分だと思う。

よく吟味すれば二つの言葉だけでも芸術を計ることはできるはずだ。
細かい規定を設けてしまうと、ここでもまた誤謬に陥り結果的に大きな誤りを招く可能性がかえって拡大してしまうだろう。

むしろ、二つのキーワードだけを念頭において直感的に判断していった方が、大きな「ズレ」を起こさずに済むのではないだろうか。というより、「ズレ」があったとしても、それが「純粋な判断」の結果であれば、それが、その時点での、その人にとっての芸術のあるべき位置ということなのかもしれない。

また、少し視点を変えてみれば、その判断が純粋なものであるか否かに関わらず、全ての判断が「ズレ」ていると言うこともできるだろう。

要するに、「ズレ」自体が問題なのではなく、その「すべてのズレた判断」のなかで、「ごく一部のズレた人の意見」だけが、「権威のある見解」としてまかり通ってしまうことが問題なのである。

とにかく、今後は「専門家なる人たち」の判断に出会うたびに、それらも全て「身勝手な自説」に過ぎないということを意識して行くべきだろう。

それは一般人の「自説」と何ら変わることはない、すなわち「芸術の物差し」の自分の好きなところに点を打って目盛りにしているだけで、いかに難しい理屈でその目盛りの点が正確な位置にあることを主張していたとしても、その正確さとは、その人にとっての正確さであって、ほかの人にとっては、ほぼ無意味なのである。

そういう人たちは、いまだに19世紀以前の一元論の世界の中に居る。
つまり、彼らは≪100年回帰≫した後の我々からですら、さらに100年遅れているのかもしれないのだ。

彼らがここまで長く存在し続けたのは、、≪20世紀≫が空転していたからであり、彼らが≪喪失の世紀≫の中で真空パックされていたからこそ、そのままの状態を続けることができてしまったということに過ぎないのだ。


我々にはその真空パックを開封して次の時代へ進む準備ができている。
したがって、もう彼らの論に耳を傾ける必要はない。
というよりも、もう今後は彼らの言っていることの意味が解らないかもしれない。
(もともと他人が聞いても理解できないようなことしか言っていない者もいたのだから)

真空パックされていたのは皆同じだ。
違うのはそれを開封して本物の空気に触れたときに、即ち≪新生芸術の20世紀≫がスタートしてから、いかに考え、いかに行動するかだ。

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ここで、ここまでの説明を補足すると、「芸術の仮定義」においては、芸術を最大限に拡大して解釈しているのに対して、「≪真術≫の定義」では芸術を最小の一点でとらえている。

つまり「芸術」は限りなく広い平面で有り、≪真術≫はその中心の一点である。
「芸術」の平面には、あらゆるものをどこにでも置くことができるが、≪真術≫では置くものは限定されないが、その場所は一点から外れることが無い。

そして「芸術」の平面上にある≪真術≫を含むあらゆる点に、それぞれ「深さを規定する軸」があると思ってもらいたい。
その軸においては、中心に近いからと言って必ずしも深いとは限らないし、遠いから浅いわけでもない。
しかし中心に近いことは、それだけ「芸術度」が高いことを意味するから、「芸術的」であるとはいえるわけだ。

また、逆に中心から遠ければ「芸術度」は低くなるが、それは「低い」と言うよりは、むしろ、「中心から離れている」ということであって、すなわち「芸術の中心から遠い」ということなのである。
そして、「深さ」は「深さ軸」によって規定されることに成るのである。

例を挙げて言うと、極めて純粋に「真実の追究」を行い、その創作者が全力を出し切ったという軌跡が現れたような作品があれば、それは深い領域にあり、さらに「芸術度」も高い≪真術≫の作品である。

また、工芸作品やエンターテイメント性の高いものなど、芸術の中心から離れた位置にあるものでも、その創作者がそれぞれの位置において相応の純粋性を保ちつつ、全力を出したものであれば、それは、「深さ」については、同じように深い領域にあると言えるのである。
ただし、「芸術度」においては、やはり低いと言わなければならないということになる。

そして、これらの仮定義においては、実際の「芸術」をどの位置に置き、どの程度の深さにあると判断するのかは、定義を使う各個人に任されるということになる。

本来定義とは、ある事物を規定し、明確な線を引いてその事物の範囲を限定するものだが、この二つの定義においては「芸術」と「真術」を規定してはいるが、その線引きは確定せずに、各個人の裁量において規定することを要求しているのである。

これは一見曖昧に見えるかも知れないが、あくまで使う者が線を確定して初めて定義が有効となるはずだから、それが確定されていない段階では定義を用いることができないわけで、そこに曖昧さが入り込むことは無いはずである。
(他の人から見れば、それは曖昧に見えるだろうが、それは本人の中での曖昧さではない)










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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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