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「自由競争」が「不自由」を作り出しているのでは?



資本主義経済や自由主義経済の基本をなしているものに、「自由競争」の原理があるわけですけれど、現在の社会においては、〝自由な競争"が〝不自由な状態"を招いているように思うわけなのです。


そもそも、「自由競争」は、自由に競い合うことで、人や企業の「ベスト・パフォーマンス」を引き出すことができるという考えに基づいて採用されているものだと思うのですけれど、現状は、そうなっていると言えるでしょうか?

確かに、過去には、それが最良のパフォーマンスを引き出していたのでしょうが、現在においては、競争原理が、人や企業の「拘束」になってしまっていることの方が多いように感じてしまうわけなのです。

過去においては、企業も人も自己の行動や仕事や製品に価値基準を持っていましたし、それらのクオリティこそが、「自由競争」の争点であったわけですが、資本主義経済が極端に進んでしまった現在、それらは、すべて資本である、お金に置き換えられてしまっているわけで、より多くの資本を集めること、より多くのお金を稼ぎ出すことが、争点になってしまっているわけなのです。

そこでは、当然のこととして、個人においては「人格」や「感性」はないがしろにされがちですし、企業においては、「品質」や「社会貢献」は二の次にされてしまうわけなのです。

例えば、「品質」が低いのに売れるものが、企業にとっては、最も儲かるもので、「品質」が高いから売れるものは、企業にとってのコストパフォーマンスのが落ちるものという扱いになってしまうというわけです。
(つまり、消費者にとってのコストパフォーマンスのいい商品が、企業にとってはコストパフォーマンスの悪い商品に成ってしまうという逆転現象が起きているということですね)

そして、現在形の「自由競争」では、常に最も儲かる選択をした者が勝者となりますから、どうしても、即時的にお金や、数字に換算されにくいものは、競争によって排除されていってしまうわけなのです。


それでも、それで幸福になったり、進歩発展したりするのならまだいいですが、「生産者にとっての勝利」が「消費者にとっての不遇」「個人にとっての勝利」が「その周りの人にとっての不満」になってしまうのであれば、その競争には何の意味もないわけですし、まして、「生産者」と「消費者」や「人」と「その周りの人」と言う立場が、相互に入れ替わるということを考えれば、その「自由競争」は「不自由な拘束」でしかなくなっていると言わざるを得ないわけなのです。


もう、競争によって進歩する時代は終わっているのではないのかなと。

競争が一切必要ないとまでは思いませんが、原理としての「自由競争」は、現在では成り立っていないのかなと。

究極の競争ともいえる戦争ですら、お互いに相手の顔色を見ながら仕掛けたり、それをスカシたりしている世界情勢の中で、「自由競争」に没入することというのは、言ってみれば「核のボタン」を押すようなもので、誰の得にもならない無益な選択になってきているのかなと。

だから、いち早く競争から離脱して、「協調」の道を選びましょうよと。

でも、「協調」は一人ではできないわけだから、みんなで「「協調」すれば、そこにもまた切磋琢磨は生まれるわけで、そこで、競争すればいいんじゃないですかと。

そんなことを、世界に向かって、きわめて小さい声で言ってみたりする。




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