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2.≪真術≫に残された可能性

 
前項で述べた内容からすると、≪真術≫とは、イメージ(観念)の中だけに存在するバーチャル(仮想的)な分野であって、実体のある作品は存在しないということになってしまいそうだ。

そういう「仮想的なもの」を目指していこうというわけではないのだが、あくまで理論上の話になると「ほぼ不可能」ということになってしまう。
(『「創作者」の力だけでは、達成できない』と言った方がいいのかもしれない。)


理論上では「真実」の物質化(表出)は「不可能」のようだが、それに近づくことは可能かもしれないし、近いところに留まり続けることができれば、もう少し明確な「真実に近いナニカ」を物質として表出することができるかもしれない。

もちろん、完璧には程遠いだろうが、『これは自分にとっての「真実」である可能性がある』と思えるような作品を得られることもあるのかもしれない。
(「真実の断片を集めたもの」と言った方がいいのかも知れないが)

つまり、創作者が「真実」を求め続け、それに向かう姿勢を保ち続けている限りにおいてのみ、≪真術≫の可能性がわずかに見えてくるのである。

しかし、肝心な「真実」が見えない中で、「如何にして、それに近づきそこに留まれば良いのか?」と言うことになると、正直言って途方に暮れるしかない。

しかし、そこで、ただ一つだけできる事がある。
それは「真実を”追究する”こと」ではなく「真実を”追究しようとする”こと」だ。
これは、やろうとしさえすれば、できることだといえるだろう。

ただ、これもまた、かなり困難なことだと言わなければならない。

目標である「真実」は見ることすらできず、それを表現するすべも、確かなものは何もない。
言わば完全に手探りの状況で、常に「真実を追求しようとする」という「姿勢」を崩すことは許されない。
さらには成果の期待できないこれらの作業を、最大限のエネルギーを注ぎ込みつつ継続していくことが求められるのである。

おそらくは、見返りがほとんど期待できないこの作業を、楽しいと思うことはほとんどないだろう。

しかし、この作業を繰り返す中で、その過程が作品に記録されて行くのである。
それはある意味、否が応でも記録されるだろう。

好むと好まざるとにかかわらず、記録されてしまうので、それをコントロールすることは難しい。
だからこそ、「姿勢」を崩すことはできない。
「姿勢」を崩してしまえば、それが記録され不甲斐ない作品になるだろう。

しかも「姿勢」を崩さず維持し続けることができたとしても、表現における手法はあくまで手さぐりなわけだから、必ず成果が得られるというわけではない。

しかし、何かが記録され続ける。

ただ、その記録をコントロールして成果に導くことができないので、とにかく作業を続ける中で、創作者の意図(センス)や技術に頼るのではなく、『時として、偶発的に現れる「真実のカケラ」を拾い集めていく』ということぐらいしか出来ないのである。


つまり、≪真術≫においてできることは、「真実」に対峙する「姿勢」を示し、創作の過程を通してそれを維持し続け、ひたすらそれを記録し続けることのみだということだ。


このように言ってしまうと、どうにも希望が持ちづらい感じだが、それが現実だから仕方がない。
これを受け入れることが嫌ならば、≪真術≫という作業は、残念ながらあきらめるしかないのである。


ただし、過去の作品(有名作品に限らず)において、これらの過程を通過して、一定の成果を収めたと判断できるような作品はあるわけで、それらが≪真術≫の概念に当てはまるような創作理念に基づいて制作されたか否かは、作者本人にしかわからないことかもしれないが、少なくともそのような作品が存在するのであれば、≪真術≫の可能性を示す物的証拠となるといって差し支えないだろう。

そして、希望の持てそうなことがもうひとつある。

上記のような作業において「才能」や「技術」はほとんど役に立たない、それは、まったくの「凡人」にも、同じ可能性があるということである。
というよりも、むしろ「凡人」のほうが有利かもしれないのである。

つまり、上記のような「不可能性」の高い作業を前提とした場合、「できること」に慣れている「才人」よりも「できないこと」に慣れている「凡人」の方が、少しだけ有利だということだ。

「才人」は、経験したことがないほどの「不可能の連続」に疲れ果ててしまうだろうし、何よりも、彼らにはほかに行く場所がたくさんあるはずだから、そちらで「できる人」と言われた方がはるかに気持ちがいいだろう。

従って、彼ら「才人」は≪真術≫にとどまることが困難になるだろうことが予想されるわけだ。

要するに、≪真術≫に関する限り、「能力」においては、「凡人」でも「才人」でも大差がないのだが、そこで使われた「労力(努力」における差が現れてくるということだ。

ともかく、これらの作業における「不可能性」の高さがあるからこそ、≪真術≫は「芸術」の中心にあるとも言えるのである。
(先にも述べたように「不可能への挑戦」は芸術の課題であるため)


今、わたしに言えるのはこれぐらいだが、一応、可能性がないわけではないと思いたい。
ただ、『高すぎる目標を設定してしまったのだろうか?』という「迷い」もないではない。

そして、この「迷い」について、次に述べることになる。











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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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