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討論する習慣



日本人は議論や討論が苦手だとよく言われますけれど、確かに、もう少し本質的な話をするような習慣があった方がいいのではないかと思うわけです。

また、『何も考えない人間が多すぎる』というのもよく言われますが、実は、それも初めから考えないのではなくて、ある程度のことを考えていても、その考えを人と議論したり討論したりして発展させる機会がないから、一つの考えから変化することがなくて、平滑で一辺倒な考えに留まっているために、何も考えていないように見えてしまうのではないのかなと。


やはり、自分だけの思考回路の中で考察を展開していけば、当然、同じ様なパターンの考え方しか出てこないわけです。

だから、小さな子供のうちにとは言いませんけれど、ある程度若い段階から、討論を習慣づけた方が良いのではないのかなと。

小学校高学年ぐらいでも、真面目に話をさせたら結構話すんじゃないかと思うわけです。
そうやって習慣になっていれば、大人になって何も考えないとか議論できないとかということも少なくなるのじゃないのかなと。


人間って、やっぱり教わったことはやるけれど、教えられてないことはやらない性質のある生き物だと思うわけです。

議論の内容は教えられないかもしれませんけれど、その場を作ることはできるのではないのかなと。


こういうことを教育関係者の人に言ったら、『今の学級崩壊したようなクラスでそんなことは到底無理!』とか、『そんなことしても誰もまともな話なんかするわけがないよ』と言う答えが返ってきそうなんですけど、実際は、意外な子供が意外な話をし始めたりすることだってあるのじゃないかと思うのです。


こどもに限らず、習慣として議論や討論をしていない人が、いきなりそういうことをすると、どうしても、ただの言い争いになってしまうと思うのです。

なんとか相手の理論の弱点や矛盾点を見つけ出して、足をすくってやろうとしたり、自分の説をまくし立てて、相手をやり込めようとしたりしてしまうわけですね。

でも、それは議論でも討論でもないと思うのです。


やはり、主張が異なっていても、そこに話の展開が生まれなければ討論の意味がないわけです。

話が発展していったり変化していったりすることで初めてプラスに成るわけで、ただ、相手の論を打ち砕いたり、、自分の言い分を通したりしたのでは、一人で考えたことから大して変わっていないということに成ってしまうわけです。

自分の主張を述べながら、相手の主張にも耳を傾け、その中で議論を展開するには、慣れるしかないと思うのです。

でも、教育の場に限らず、そんな場所ってほとんどないと思うわけです。
場所と言うよりは、そういう空気がないのかもしれません。

一人でそんな雰囲気を醸し出してもあまり意味がないので、誰もそういうことはしなくなっていくのでしょう。


でも、もっと自分の内側にある話を、人に対して出していけるようになった方がいいような気がするわけです。
子供の場合と同じで、意外な人が面白い話を持っているということはよくあることかなとも思います。


それから、案外いいストレスの解消法に成るような気もするのです。
自分のうちにあるものを外に出すということは、最高のストレス解消に成るはずなわけですから、それが、言い争いになったり、単なる愚痴のように成ってしまわない限り(まぁ、それでもいいのかもしれませんが)、きっと、かなり発散できるのではないかと思うわけです。

そうなると、これからのストレス解消法は、カラオケじゃなくて議論や討論かなと。
そういう日常の中に、もう少し真剣に話す「場の空気」があればいいんじゃないのかなと。

そんな感じもあるんじゃないのかなと思ったりしています。



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79:
※78
MKさん、コメントありがとうございます。

できれば最低限の討論のルールやテクニックが「標準」として、
備わっているといいと思います。

そうすれば、話し合いをするときに、いちいち相手を見て「この人と
突っ込んだ話ができるかな?」って考えなくていいですから。

それに、たいていの場合そういう探り合いの段階で、終わってしまうので、ほとんど本題の話ができないですから。
78:
若いころにお世話になった先生がもと全共闘の闘士で、学生運動で有名なある大学の全共闘の議長でした。その人が「人と話していて知らない話をされても絶対に知らないと言うな。知らない話はその場では知らん顔して聞いておいて、家に帰ってその事について調べて次の機会に議論しなさい。知らない、わからないと言った時点で思考は止まり何の進歩もなくなってしまう。やせ我慢でもいいから(知的に生きたければ)簡単に降参するな。知ることと思考することにどん欲になりなさい。」こう言われてからは(若いころは)とにかく食いついて議論しました。おかげで、ええ格好をするために少しは勉強もしましたし、人と議論もしました。そういう基礎体力のようなものが少し後になって役に立ちました。そういう経験があるので、特に若い子には簡単に降参せずに勉強して人と議論して欲しいです。そうすることでお互いが磨かれると思います。詭弁術からは得られるものはないです。強いて言えば相手の恨みを買うくらいです。議論はお互いの知識と思考力を磨きます。そういう考える訓練をもっと教育の場でもするのがよいと思います。
77:
※76
MKさんコメントありがとうございます。
考えることが、日常生活に役立つということが見落とされていますよね。

たぶん、相手を言い負かすテクニックと討論からお互いの説を
発展させるというテクニックが、入れ替わってしまっていますよね。

議論とか討論と言うと、面白くないことのように思いがちですが、
思考や考察を発展させるようなテクニックを
皆が一通り身に着けている前提があれば
意外と楽しいことに成ってくるはずだと思うんですよね。
76:
>カラオケじゃなくて議論や討論かなと
賛成です。
高度経済成長期なら知識を入れて既製品のような若者をどんどん社会に送り出す教育でよかったでしょうけれど、このような先行き不透明な時代だからこそ教育自体も知識の取り入れから思考することに切り替えるべきです。考えて議論して、この繰り返しは必要です。
ただ注意しないといけないのはアメリカのようにディベートで相手を言い負かせばいいというような教育をすると口先だけの無責任人間があふれます。詭弁術ではなく思考の延長としての議論の訓練をする必要があると思います。議論する習慣のあるなしで日常の些細な事柄に対する見方や理解度も変わりますから。貴兄のご意見に賛成です。

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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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