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「悪口」=「ネガティブ」なのか?



「悪口」と言えば、ネガティブの代表なわけですけれど、それは「悪口」の定義によると思うわけなのです。


悪くない人を悪く言うのが「悪口」であれば、それは間違いなくネガティブでしょう。
また、いいところも悪いところもあるようなことについて、その中の悪いところだけをわざわざ拾い出して悪く言うのも、確かにネガティブなことだと言えるのでしょう。

 ※ここで「悪い人」とか「悪いこと」と言っているのは、基本的にそれを言っている
  人が「悪いと思っている人(こと)』のことです。
  つまり、「絶対的な善・悪」の話ではなく、「その人にとっての善・悪」を基準にし
  ています。
 

でも、明らかに悪い人やものについて、それを悪いということを含めて「悪口」と言っているのだとしたら、それは、ネガティブなことなのでしょうか?

もしも、明らかに悪いようなこと、または、自分が本当は悪いと思っているようなことの中から、なんとかして、いいところを見つけ出してきて「悪口」を言わないようにしているのだとしたら、それは、一種の「嘘」であって、むしろ、そちらの方がネガティブなことではないのかなと。

たとえ、それが善意によるものであったとしても、度を越せばその「嘘」も色濃くなってしまうわけなのです。
そして、その度合いの物差しが、かなりずれてしまっているように思うのです。

本当のことを言って、それが何かに対する批判を含んだことであったとしてもそれを、「悪口」と言えるのでしょうか?
というか、その「悪口」はネガティブなことなのかなと。

今の日本では、そこの所が抜けていて、何かを悪く言うことがすべて「悪口=ネガティブ」と言われてしまっているように思うのです。


結局、悪くもないものを悪く言うのも「嘘」だし、悪いものを悪く言わないのも「嘘」なわけで、それは、両方ともネガティブなことではないのかなと。

だとしたら、悪いと思ったことをただ正直に悪いと言った人を、「ネガティブ」と呼ぶことの方が本当の「悪口」では無いのかなと。

もちろん、根拠のない批判や感情的な誹謗中傷を推奨するつもりはありませんけれど、そういうデタラメな「否定」と理由のある「否定」が、すべて一緒くたにされてしまっているように思うわけです。

実は、大事なのは「ポジティブ」か「ネガティブ」かではなくて、「肯定」と「否定」のバランスや内容ではないかと思うわけなのです。


現在の日本社会では、明らかに「否定」が強制的に排除されてしまっているわけです。

それは言ってみれば「否定」が「否定」されているということであって、どう考えても矛盾しているわけです。

もしも、本当に「肯定」を尊重するのであれば、「否定」は「否定」として、その妥当性を、公平に検討したうえで「肯定」または「否定」されるべきであって、一律に、「否定」的だからという理由で「否定」したのでは、それ自体も、また「否定」的になってしまっているわけで、自己矛盾に陥ってしまっているわけです。


私としては、「ポジティブ」な考え方や「前向き」な生き方が悪いとは思いませんし、そういう方向性を持った人と言うのも、人としてはとても好きなのですが、ここで言っているのは、現在の日本社会の状態のことなのです。

私には、どう考えても「批判」や「ネガティブ」が排除され過ぎているとしか思えないのです。

あまりにバランスを欠いた状態のようにしか見えないので、どうしても「肯定」側よりも「否定」側に肩入れしたくなってしまうわけなのです。


それから、それは元を正せば経済的な理由からそう成っているのではないかと思うわけなのです。

例えば、商品のレビューなどを見ても「肯定」的なものがほとんどな中で、数少ない「否定」的なレビューの方が役にたつことも多いのですが、それは、購売に結びつかないので見えないところに追いやられてしまいがちなわけです。

これなどはまだわかり易いですけれど、もっと見えにくいことでも、何らかの経済上の理由から「否定」が理不尽に排除されていることは、たくさんあるように思われるわけです。

というよりも、「否定」が意図的に排除されているケースのほとんどが、経済と結びついているようにさえも思えるわけなのです。

排除している本人は、ただ単に「肯定」の方が「建設的」で「前向き」だから、いいだろうと思ってしていることでも、実は、「建設的」や「前向き」には既に経済促進的な側面があるわけです。

そして、経済の部分を除いた本当の意味の「建設的」や「前向き」というのは、必ずしも「肯定」ではない、否、むしろ「否定」的であるはずなのです。


何かを作ったり、行ったりするのに試行錯誤がなければそれが良くなるはずがないわけですけれど、その試行錯誤に当たるものは、間違いなく「否定」的な要素を含んだ考察ではないのかなと。

『これじゃダメだ』『これでもまだ足りない』という「否定」の繰り返しが「建設的」なのであって、はじめから『これでいい』というのは、ただの「テキトー」で、決して「建設的」なことではないと思うのです。

また、あくまで試行錯誤を経た後での「肯定」は「前向き」であっても、その段階を飛ばした「肯定」は”ザツ”なだけだとも思うのです。

つまり、肯定的であることは「建設的」「発展的」「向上的」であるより以上に、「経済的」なことであるとも言えると思うのです。

「建設的」「発展的」「向上的」を経たうえで、それが「経済的」に成るのならいいのでしょう、
でも、そこには「否定」という過程が必要不可欠になってくるわけです。


「悪口」=「ネガティブ」という短絡的な発想で「否定」や「批判」を排除していってしまうと、全てのもの事は衰退して、骨のない形だけのつまらないものになっていってしまうのだと思うのです。

こういうことを了解済みで言っている人も多いとは思いますけれど、問題なのは、「肯定」と「否定」のバランスなわけで、
その「量」と「質」におけるバランスが明らかに崩れている現状においては、「否定」の側の「量」と「質」を意識して高めていかなければ、益々、まともな話が通じないような、充実したものが生み出されないような、そんな世の中にしかならないのかなと。

いま、社会が求めているのは「肯定」ですが、いま、社会に必要なのは「否定」だと思うのです。


私にはどうしても、そんな風にしか思えないわけなのです。




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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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