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3.≪真術≫における「迷い」について / 「迷い」の時代へ


 前項で、≪真術≫においては、作者の「真実の追究」に対する「姿勢」が重要であると述べたが、それでは、その「姿勢」とはどのようなものなのだろうか。


一般的な考え方をすれば、「姿勢が大事だ」と言うとき、「迷いのないきっぱりとした姿勢」を指す場合が多いだろう。
しかし、ここで求められているのは、先に述べたように「真実を追究しようとする姿勢」である。

つまり「不可能に挑戦する姿勢」と言い換えることもできる。

そして、さらに言うなら、それは「迷いの姿勢」なのである。
不可能なわけだから、当然、『迷わずにできるはずはない』ということになる。


つまり、一般的に考えるのとはまったく逆に、一貫性がなくはっきりしないように思われがちな「迷いの姿勢」が重要な要素になるのである。

ただし、ここでいう「迷い」とは一般的な「迷い」とは少し違う。

それは、決められるはずのことを決められずに迷ってしまうというのではなく、決めるのが到底困難と思われるようなことについて決断を迫られた時の「迷い」であり、さらには、一つの決断を下しても、すぐにまた次の決断を迫られるという「正解のない決断の連続」において、揺らぐ心理の不透明感を指したものである。

それは傍から見れば、まったくきっぱりしない、そして決断力のない「迷いの姿勢」に見えてしまうのかもしれない。

しかし、その内部で起きていることは、その見た目とは裏腹に、厳しい「姿勢」を保った状態で、一つ一つの決断を下し続けていくという困難な作業の連続なのだ。
だから、これをただの優柔不断や曖昧さと一緒にすることはできないのである。
それは、自己に対して率直であろうとすることで生じる「迷い」と言うべきなのだ。

こう言うと、「迷い」が急に格好良く見えて来るが、それもまた違うと言わなければならない。

上記のような心の動きがあるとは言え、「迷い」が「迷い」であることに間違いはない。

やはり、そこには人間の「弱さ」や「情けなさ」があるだろうし、今まで「天才」や「巨匠」と呼ばれてきた者が必ずどこかに持っていた「自信」や「風格」は無く、どちらかと言えば「普通の人」に属する者に付き物の「凡庸さ」があるのだろう。

しかし、その反面、「天才」や「巨匠」にはどこか威圧的なところがあって、上から人を押さえつけるような「偉そう」な感じもあるが、「迷い」の渦中にある人たちにはそういうことは無いのだろう。


どちらを選ぶかは、個人の自由だが、私に言えることは「天才の時代」は終わっているということと、「迷いの時代」が来るだろうということだ。


わたしなら、どんなに「見栄えが良く」ても終わっているものは選ばない。
なぜなら、そこには、もう意味がないから。
多少「情けない感じ」でも、これから来るものを選ぶだろう。
なぜなら、そこに、意味が生み出されていくのを見たいから。


それに、私は、情けない感じの「やさしさ」や「奥ゆかしさ」、そして何より「人間味」が好きなのだと思う。
そういった「人間性」こそが、「現在」を救うものだと思うし、未来を切り拓くものだとも思う。

そして、これも、これからの時代に重要度が増す(見直される)と思われる「普遍性」は、「普通の人」にこそ創り出せる物だとも思っている。


それはつまり、人間が「神」という救世主に頼っていた時代が終わり、人間、それも「普通の人間」が、自分たち人間自身を救うべき「救世主」に成らねばならない時代がやってきたということだろう。

話がやや飛躍してしまったが、足をすくい合っている時ではないことだけは確かだ。




さて、そもそも、この「迷いの姿勢」は何に由来して重要な要素となったのだろうか。


前述のように≪芸術の20世紀≫に置いては、「神的世界観の瓦解」~「精神的基盤の喪失」~「既成概念の破壊」~「急進」~「混迷」と劇的な変化が続いたわけだが、そこで起きた「混迷」こそが、この「迷い」に当たるものだ。

つまり、本来ならば「混迷」が渦になりすべてを飲み込んでしまうようになる前に、「迷い」が芸術の本質的な部分に関わる要素になっていくべきだったということではないだろうか。


それまで信じられていた絶対的な(一元的な)世界観が崩壊して、すべてのことが相対化してしまったわけだから、そこに、「迷い」が発生したのは当然のことで、その「迷い」をそのまま「時代の真実」として、表出し作品化できていれば、力強い作品になっていたはずなのに、まだ、心の準備ができていなかった「20世紀初頭の人々」は、そのような「時代の真実」を受け入れることが出来ずに、強引に「きっぱりとやりきってしまう方向」へ持っていってしまったのだろう。

人々の意識が急激な変容を遂げて行く「20世紀」初頭にあって、その時代の人々が最も見たくなかったのが、自分たちの心の中にある「不安」であり、それを煽る「迷い」だったということかもしれない。

そして、この「やりきってしまう方向」、言い換えれば「新しいことをやったもん勝ち」というスタイルが、≪芸術の20世紀≫の方向性として決定づけられてしまったことで、以後100年間の空転が生み出されてしまったということだ。


とはいえ、あまりに意識の変容の幅が大きかったために、「不安」や「迷い」から完全に目をそらすことはできずに、どこかでは、それを求めてしまうところもあって、「不安」や「迷い」をテーマにした作品や、それらを感じさせる作品は、この時期にはむしろ多いと言えるだろう。

しかし、それらの「迷い」作品は必ず(と言っていいほど)どこかに、はぐらかすような要素(ユーモラスだったり、デザイン的に簡略化されていたり、奇抜だったり)があって、前面に「迷い」は出てこない。
むしろ、『はぐらかし』のほうが、先に強いインパクト与えるような構成(仕掛け)になっていることが多い。

そしてこの時代において人々は驚くほど、これらの『はぐらかし作品』には寛容であり続けたのである。
(これらを「時代の傑作」とすることが結果的には、いつも受け入れられてしまった)

おそらく、これは本当に寛容であったわけではなく、「難解な理論」や「極端にヒネラレタ・コンセプト」について行く気になれずに、『面倒だから寛容な振りをした』、または、『しぶしぶ寛容な態度をとった』ということであり、そして、さらに『それに対して寛容でいることで、自己の内の「不安」と向き合わずにいられたのも好都合だった』ということだったのだろう。


これらの難解な理論や「ヒネラレタ・コンセプト」を本当に好んでいる人もいたのだろうが、その時点で、それが多数派であったとはとても思えない。

そして、誰もが面倒くさがってまともに批判しなかったために、ほとんど吟味されないまま、おそらく少数派であったと思われる、そちら側の人たちの「強烈な意見」が、≪芸術の20世紀≫の方向性を決定してしまったところに大きな問題がある。



ところが、その反面「真実の迷い作品」は少なく(おそらくそれは19世紀後半から20世紀初めごろには芽を出していたにもかかわらず、その後姿を消してしまったように思える)、この社会に「不安」「迷い」が激増していたはずの時期に、それらは『はぐらかされて』しまったのである。

そして、この『はぐらかす』という態度、言い換えるなら「真実」から目をそらして見ないようにする「姿勢」が、「迷い」を「混迷」へと変化させてしまったのである。

また、この過程で「抽象化」という言葉が『はぐらかす』のに便利なアイテムとして使われてしまったことも、「真実の迷い」作品が出てこられなくなってしまった原因なのかもしれない。


「抽象表現」は、実は「迷い」を現すために使われるべきであったと、今、私は痛感している。

実際は、「抽象」か「具象」かの問題ではなく、また、絵画理論における「抽象」の問題でもない。
「迷うこと自体」こそが、「最も抽象的なこと」なのではないかと痛感しているのである。




それはともかくとして、「20世紀社会」において「迷い」が敬遠されたことは、ある程度やむを得ないことであったと思う。
だが、それに「芸術者」が追随してしまったこととなると許容範囲を超える。

世界や事象の真の姿を見つけ出して表出するべき「芸術者」が、「本質を見失ってしまっている時代の核心」に目を向けず、盲目的に「時代の要求するもの」を創り続けたことは、やはり批判されるべきことだと言わざるを得ない。

「20世紀の巨匠」たちが、「自分たちに天才の名が与えられた真の理由」を見抜こうとせずに、その「天才」という称号(権威)を与えた「時代のワナ」に囚われ続けたこと、そして何より、この世を去る前に、自分たちが「天才という偶像」を演じさせられていたという事実を認め、それを修正した者が全く居なかったということは、悲しいことだと言わざるを得ないのである。

しかし、断っておくが、上に述べたことは本来の主旨としては「20世紀の芸術家」批判でもないし、「20世紀の芸術」批判でもないし、「20世紀」批判ですらもない。

それどころか、私は「芸術の20世紀」は、その時点では必要だったと思っている。
「巨匠たちの奮闘」があってこそ、今、わたしがそれについて論じられるのだと思っている。


それでは、なぜ批判的になってしまうのか。
正直言えば、それは、今の私にはそうするしか方法がないからに他ならない。

とにかく、私には現在の状況だけは受け入れがたいし、どうしても、それが私だけのこととも思えない。
つまり、私には「芸術」が行き詰っているように見えるのだ。

いや、それどころか、今に至っては「芸術と言う場所」が本当に存在しているとは思えないといった方がいいくらいだ。
そして、その現状に至った原因を考えると、そこには必ず≪芸術の20世紀≫がある。

このままでは、誰も「芸術」を追求することが出来なくなるだろう。
このままの状態を続けていけば、もしかしたら、本当に「芸術」自体が消えてなくなってしまうかも知れない。

確かに、それくらいの危機感は持っている。


すべては、批判することが目的なのではなく、「芸術」に「本質」を取り戻すために言っていることだ。

巨匠たちを讃えることで、「芸術の本質」が保たれるなら、私はそうするだろう。
でも、そうは思えない。


取り敢えず「20世紀が作り出した流れ」を止めなければ何もできない。
それが、今の私の気持ちのすべてだ。

わたしは、「巨匠たち」が時代に翻弄されていたことに間違いはないと思うのだが、それは、彼らのせいでそうなったのではなく、「20世紀」の「時代の力」が過去のそれとは桁違いの大きさになってしまていたためなのではないかと考えている。

そして、その膨張しきった「時代の力」を鎮静化して、少し小さくしてからでないと、何もできないということなのだ。


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ここで、話がそれたついでに言っておきたいことがある。


それは、「20世紀の巨匠」たちの影になってまったく時代の中に見えてこない、「真の迷い」を見つけ出していた人たちのことだ。

彼らの名前は、ほとんど美術史に残されていないので、想像の域を出ない話ではあるが、20世紀初頭以来のどの時代においても、きっと「真の迷い」を見つめていた人たちは居たに違いない。

しかし、彼らは時代に抹消され、おそらく、ほとんど芸術活動自体ができなかっただろうし、それどころか、彼ら自身が芸術に近づくことすら諦めていたかもしれない。

私に言わせれば、彼らこそ、本当の「20世紀の巨匠」と呼ばれるはずであった者である。



彼らは、時代の要求するものを提供できない自分に失望し、芸術の場におけるアイデンティティーを築くことができないまま、その場を離れたか、自己の内に見出した「真実」と、それぞれの時代の間の溝の深さに絶望して、芸術に近づくことすらなかったかのどちらかだろう。

だから、彼らの「真の迷い作品」が、ほとんど残されていないのだろう。


この「宣言」において「20世紀」を「喪失」するにあたって一番気にかかっていたのが彼らの存在だった。
実際、「巨匠」たちを「喪失」することには意外なほど抵抗を感じなかったのに、彼らのことが頭に浮かぶと、私は悲しい気持ちになるのだった。

そこで、なんとか彼らの存在を明らかにする術はないのかと考えたほどだが、それは、どうにも、私には出来そうになかった。


何の評価も与えられず全く名を残すこともなく、しかも、常に時代とのギャップに息苦しい思いをしていたであろう彼らを、もろともに「喪失」してしまうことにどうしても抵抗があったのだ。


しかし、よくよく考えてみれば(この「宣言文」を書いたことでわかった)、彼らは、すでに時代から消去されているのであり、だからこそその名が残らなかったのだ。

だから、今は、、むしろ「芸術の20世紀」を「喪失」することで、すでに消されている彼らのもとへその「時代」を送り届け、やっと彼らの時代が到来したことを、彼らに知らせ、『あなた方にとっては遅すぎたかもしれないが、もしも、そこにあなたたちの居る場所があるのならば、そこで本来あなたたちが成し遂げるべきであった「芸術」を存分に見せつけてください』というメッセージを送りたい。


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話を元に戻すと、「芸術の20世紀」において現れるはずだった「迷い作品、」が現れなかったのは残念なことだが、わたしは≪新生芸術の20世紀≫は「迷いの時代」になると思っている。

「迷うこと」が時代の理念の一角を占めるのは正に既成概念の逆転であり、マイナスがプラスへ転換するということである。
この発想の反転こそが、新しい世紀の扉を開く鍵になるものだと思っている。
(これは、本来は「反転」と言うよりも、「再・正転」または「複・正転」である。つまり≪芸術の20世紀≫が何回もヒネッテしまった状態を、元に戻すということに成るわけだ。)












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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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