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Ⅲ.【この「宣言」の原点】/芸術の果たすべき責任     ⑴ 芸術は「非生産的」であり「唯一無二」である

    
 最後に、ここまでの「総括」に代えて「芸術の果たすべき責任」について述べておきたい。


⑴ 芸術は「非生産的」であり「唯一無二」である


これは、この「宣言」と具体的には関係ないことなのだが、以下に述べるところが、私がこの文章を書くきっかけになった起点の考えであり、本論稿に通底している「根源的な精神」なのだと言っておきたかった。

すべての疑問や衝動が、ここから湧き出てきたのである。





まず初めに、「芸術」は「非生産的」な分野であるということを言っておかねばならない。

ここでいう「非生産的」とは「不毛(無意味)である」ということではなく、自質的な生産をしないということだ。
それは、言い換えれば、「物質的な価値」を生産しないということだ。
そこで生み出されるのは、専ら「精神的な価値」ということになる。
(「人間にとっての意味」と言い換えてもいいだろう)

そして、その「精神的な価値」とは、万人に共通なものではなく、その上「無くても我慢できるもの」と言うこともできる。
(実際、短期間であれば我慢できるだろう)

そのために、「物質的な価値」を生み出すことよりも「精神的な価値」を生み出すことの方が生産性が低いということは、認めざるを得ないということなのである。
従って、それは「非生産的」だと言わねばならないのである。

ここで問題なのは、「精神的な価値」においては、時と場合により、その『価値が大きく変動してしまう』ということと、短期間であれば『無くてもいられる』ということだ。

要するに「精神的な価値」は「物質的な価値」のような「絶対的な価値」ではないということだ。
だから、「精神的な価値」は「物質的な価値」よりも、重要度においてどうしても低い扱いを受けざるを得ないのである。

『背に腹は代えられない』ということで、これはある程度やむを得ないことだと思うが、それが度を過ぎると問題が出てくる。


このことを説明するには、まず、「芸術」が、他の分野で代替することができない「唯一無二」の分野であることを、断っておく必要がある。

「精神的な価値」の中でも、特に「感動」の領域にまで達するような価値を提供できる分野となると、おそらく「芸術」を置いてほかにはないと言えるだろう。
少なくとも「感動」自体を直接的な目的とする分野は「芸術」以外にはないと言うことはできるだろう。

また、これは、形のあるものではないので明確な説明をすることはできないが、同じ「感動」でも「芸術が提供する感動」は、ほかでは得られないと言っても差し支えないのではないだろうか。

そして、これらの「感動」を含む「精神的な価値」が大きく損なわれると、人間は社会の中で自己の感情を発露する場を失って、何かしら困った状態に陥ることになるに違いないのである。

だからこそ、実質的(物質的)には価値の低い「非生産的」な分野であるにもかかわらず、「芸術」は重要であり、また守られるべきなのであろう。

なぜ守られる必要があるかと言えば、それが実利を伴わないが故に、一時的に失われたり歪められたりしても、事実上の問題が表出するのは一定の期間を経てからであり、それまでの間、見過ごされてしまう可能性が高いからである。

ただし、守られるといっても、具体的に保護してもらう必要があるというわけではなく、むしろ何もしない方が不自然な力が加わることがない、という消極的な意味での保護ということになるだろう。


以上を要約すると、「芸術」は「絶対的な価値」を提供しないため重要度においてやや低く見られることがあるが、そのような状態を過度に続けていると、人間は精神の均衡を保つことができなくなり、社会の中で人間らしい精神活動を行うことが困難になってしまうので、社会は「芸術」を保護する必要があるということだ。

つまり「芸術」は保護される権利があるということだが、そのことも含めて「非生産的」であるということは、「生産的な分野(人)」に”世話になる”ということである。

従って、逆に言えば当然のことながら、そこには責任が発生するということになってくるわけだ。


極端な話ではあるが、すべての人が「芸術者(以下、主に専業としての芸術者)」すなわち「非生産者」であった場合、皆、食べるものも着るものもなくなって生活が立ち行かなくなるだろう。
しかし、すべての人が「生産者」であった場合は最低限の生活には困らないのである。

※「芸術者」:「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」の三者を指す。

そこで、前者の例で言うと「生活が立ち行かなくなった」後どうするかと言えば、恐らくすべての「芸術者」の中から有志が現れて、不本意ながらも「生産者」としての役割に従事することになるのだろう。

そこで言えることは、残った「芸術者」たちには、「生産者」側に回ってくれた人たちに対する責任が発生するということだ。


そんな状況において、『自分が頼んだわけではない』と言う言い分は通じないだろう。
それを言う人は、かなり「芸術の中心」から離れてしまっていると言わざるを得ない。

なぜなら、それを言う人は『本質を見ようとしていない』ということに成るわけで、物事の本質を見極めるという「芸術」の根幹をなす部分が抜けてしまっているからである。

これは、あくまで、あり得ないような設定での話だが、現実の社会においてもこうした責任関係が、「生産者」と「非生産者」の間にはあって、そこにおける責任を果たすべく、心してかかる者だけが本当の「芸術者」であり、その名で呼ばれるのにふさわしい者なのだと私は思う。


つまり、「芸術」が、「生産者」側に対して、何らかの「意味や価値」を提供できてはじめて対等となるのだとすれば、その責任が果たされていない間は、そこには対等ではない力関係が存在するはずで、それを対等に戻さないと、必ずやその、不均衡な力関係によって作品の純粋性が損なわれてしまうのである。

だから、『責任を果たす』と謳ってしまうと、それが義務化して「純粋な創作」ではなくなってしまうようにも感じられるかもしれないが、それは逆で、「責任を果たすこと」が自発的に行われる行為であれば、それは創作衝動の一部と看做すことができるが、社会における不均衡な力関係というのはある意味絶対的な原理として作用してくるものだから、むしろ「責任を回避すること」のほうが、よほど「純粋な創作衝動から遠ざかってしまう原因」に成り得るのである。

これは、『本人もその影響に気が付いていない』というような場合も含めれば、必ずそう成ると言ってもいいだろう。

「芸術者」は、なぜ自分たちにその立場が与えられ、社会に対して自分たちが何を提供すべきなのかを考えて行動することで、社会に対する責任を果たす義務があるだけでなく、そのような「姿勢」で創作に臨むことでこそ、初めて「真実」=「芸術の中心」に近づくことができるのではないだろうか。

以上のことが、私がこの文章を書くことにおける起点となったものである。
ここを発端として湧き出てきた疑問や衝動が急速に膨らんで、もう、わたしは≪芸術の20世紀≫を受容できなくなってしまった。

そして、『このような感情を抱いている人が他にもいるに違いない』という思いも強くなる一方だ。
現状に至っては、むしろ、『このような気持ちを一切持たないでいられる人など存在しないのではないか?』と思っているほどだ。

もしも、『頑として≪芸術の20世紀≫を擁護する人』に出会って猛烈な抵抗や批判を受けたとしても、『その人も何かのきっかけで、クルッと反転して賛同してくれるに違いない』、きっとそんな風に、今のわたしは思ってしまうだろう。

たとえ、どんな世代、どんな地域、どこの国の人でも、変わらない。
それが私の気持ちだ。










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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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