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個人を無能化させても、もう「トク」はない



現代の社会と言うのは、人間を社会の一構成要素として扱うことで、効率化を進めてきたわけですけれど、それによって得られるところの成果が、かなり前から頭打ちになってきていると思うわけです。

それに対して、そこから生まれる弊害の方は、年々大きくなって、既に、成果の方を上回ってしまってからですら、かなりの年月が経過してしまったように思われるわけなのです。


要するに、社会は人間をより単純化して、社会と言う機構を効率よく機能させるための部品として看做すことによって、個人の持っている有機的な要素を排除し無機的な性質を最大限に引き出し、そのことによて、結果的に現在の精密機械的な社会機構を得たのだと思うわけです。

過去において、それが良かったのか悪かったのかについては、功罪相半ばと言うところだと思いますけれど、現在においては、明らかにマイナスになってきているように思えるわけです。


もともと、これまでの効率を支えてきたのは、産業革命以来の技術革新だけではなくて、奴隷制に始まり、植民地政策や労働搾取などの圧倒的な個人の犠牲でもあったわけで、そういう前時代的な社会には戻れない状態になった現在、その方向(個人を部品化するという方向)で社会を運営してゆくことは、これまでのような効率は得られないのに、個人の犠牲だけは増大していくという「労多くして利の薄い行為」となってしまうと思うわけですね。


技術的な進歩と言うのは不断に続いて行くのでしょうし、時には、画期的な技術が開発されて、一時的に挽回するようなこともあるのかもしれませんが、それはあくまで一時的なものにすぎず、恐らく今後、そうした技術による効率の向上が、それに対して圧倒的な社会機構による効率の停滞を上回り続けることは無いのでしょう。

もはや、『技術の進歩が何とかしてくれる』と言うのは幻想にすぎないでしょうね。

たとえば、医療において、医療の進歩によって、人間の寿命は延びたのかもしれませんが、それによって、人生の中で不幸な時間が伸びただけであれば、それは進歩と呼べるものではないと言わざるを得ないわけです。

実際、現在の「長老」達は、果たして社会の中で尊敬されているのでしょうか?
彼らは、そこで何かしらの役割を得られているのでしょうか?
かつての奴隷たちにですら、労働力としての役割が与えられていたとも言えなくはないわけで、彼らに人権が与えられていなかったことは、極めて不幸なことであるわけですけれど、それでは、尊敬されることもなく、あらゆる役割から除外されているような現在の「長老」達には、果たして、真っ当な人権が与えられていると言い切れるのでしょうか?
まぁ、こういうことに疑問が出てきてしまうわけですよね。

そして、このような「進歩による不幸」は現代社会のいたるところに見られるわけで、それは、現代社会が、「人間」を部品と看做して「個人を無能化すること」を手法として使い続けてきたからに他ならないわけですから、それを手放して、効率を犠牲にしてでも、個人の持っている有機的な部分の能力を高めていくしかないわけなのです。

それは、何も画期的な発想者や突出した感性によるものとは限らなくて、まったくもって日常的な工夫や思い付きに過ぎないものでも十分に効果的ではないのかなと。

現在の人間の個体数は、ある意味で自然界の法則を無視しているほどなわけですから、その大半が「無能化」している状態から「有能化」へ転換した時の効果は計り知れないほどに成るでしょう。

その効力は、機械的な効率を捨てたことによるマイナスを遥かに上回るように思えるわけなのです。

教育・文明・文化がかなりの底辺にまでいきわたっている現在、人間の持っている潜在能力は過去にないぐらいまで高まっているはずなわけで、その点では、過去とは比べ物にならないぐらいの力が内在していると思われるわけです。

せっかく高まっている能力をあえて「無能化」するという手法は、有り得ないでしょう。


ただ、ここで、すでに出来上がってしまった「社会の意思」が、常に個人の「無能化」を求めてくるわけですし、さらに、今はもう達成することができなくなった「効率化」をも同時に求められるわけで、そのダブルバインドに挟み付けられて疲弊している現代人が、そこに対抗するような意志を持てずに、ズルズルとその状態を続けているというのが現状でしょう。

意思と言っても、それほど強固な意志力を求められるとは思えないわけですが、言ってみれば、「社会の意思」に沿って働くことをやめて、「自己の意思」に沿って働くようにするということなのでしょうか。

「社会の意思」に沿って働いても、高齢になった時点で切り捨てられるのであれば意味がありませんから、むしろ、自分の方から社会を切り捨ててしまおうということです。


いずれにしても、流れとしてはそちらの方に向かっていくのが、ごく自然なわけですから、何時かはそんな風になってゆくのでしょうが、現状を見ていると、どうしても社会による「人間の無駄使い」が気になってしまうわけなのです。

と言うか、『いったい何のために教育や文化を行きわたらせて来たのか?』と言う感じですね。
『これまでの人間の歴史って、なんのためだったの?』


そんな風に思ってしまうわけなのです。



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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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