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全てのものは、何かと何かのあいだにある:二つの間の張力を高めること



この世の中の全てのものは、何かと何かの中間にあるのだと思うわけです。

両極の間と言ってもいいし、上と下の間と言ってもいいし、良いと悪いの間と言っても言ってもいいわけですけれど、どんなものでも、一つの性質に徹底することはできなくて、それとは違う性質が混ざっていて、そういう中で、それらの性質の中間のどこかにあると言ってよいのだと思うのです。


芸術で言えば、「具象」と「抽象」や「立体」と「平面」また「純粋性」と「娯楽性」など、あらゆる形での対比があると思いますけれど、それらは、どれ一つをとっても、一極に徹底することはできなくて、必ず何かと何かの間にあるわけなのです。


「具象」と言って、どんなにリアリズムに徹したとしても、それが、〝現実"のものではなく作品なのであれば、そこには「非現実性」即ち「非具象性」があるわけで、言い換えれば、そこで「抽象性」を排除できないわけなのです。

もしも、そこで完全に「抽象性」を排除しようとすれば、「現実のもの」そのものに成るしかないわけですが、それは、もはや「作品」ではなくなってしまうわけで、「具象」とも言えなくなってしまうわけなのです。


もちろん、その逆の意味で、「抽象」にも同じことが言えるわけです。

「抽象」を極めようとすれば、現実を現す要素を排除していかざるを得ないわけですが、最終的に、何かを表現しようとする行為自体に含まれる「具象性」をも排除した段階で、「表現」に当たるものが何もなくなってしまいますから、やはりこれも「作品」としての体をなさなくなってしまうわけです。


結局どちらにしても、中間に留まるしかないということだと思うわけです。

一極に徹底するという試みが、まだ一通り行われていなかったときには、その都度、その時の最先端にある手法や表現形態が、「一方の極の最端部」であるように見えていたわけですが、現在では、それらの極限化はすべてが「無」に帰納してしまうことが見えて来たのだと思うのです。

つまり、「形のある絵」しかなかったときに「形のない絵」を描くと、それは、その時「抽象」の極限に見えますけれど、次に、画面を一色で塗りつぶした絵が出て来ると、「極限」は、そちらに移って行ってしまうわけです。

そうして、「極限」を追っていくと、必ず最後には「無」に行き着いてしまうわけです。


そして、現在は、それらの試みが一通り試されて、ようやく『極限を求めれば無になってしまう』という結論に到達したのだと思うのです。

ただ、この結論を「芸術」と言う分野が冷静に受け止めきれていないところがあると思うわけです。
そしてその結果、その結論は放置されたまま、あまり機能を果たしていないというのが現状ではないでしょうか?


実際には、現在追求すべきは、もはや、「極限」でもなければ、「具象」でも「抽象」でもなく、それらのどこであっても、常に全てのものが何かと何かの間にあるということを受け止めて、それを、よく知ったうえで、それらの二極の間の張力を高めることなのではないのでしょうか?


つまり、一方に突き進むのではなく、両方向に向かうテンションを高めて、その間にあるということに内在する力を高めてゆくことが、今できる範囲のことなのではないのかなと。


要するに、同じ中間にあるのでも、ただ漠然とそこにあるのではなく、目いっぱい力を注ぎ込んだ状態で、二つの力を拮抗させて、それでいて、どちらかに押し出されてしまわずに、中間に留まるというようなところかなと。


『言うは易し、行うは難し』
でも、「やろうとすること」は誰でもできるわけなのです。
どうすればいいのかわからなくても「やろうとすること」はできるのです。

それについては、『言うも易し、行うも易し』なわけです。


今日の所はそんな風に思うことにしておこう!


※張力と言う言葉にやや疑問があったので、そこのところを補う記事を次に書きました。
 そちらと合わせて一つの記事となっています。


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