FC2ブログ

「画面をコントロールすること」と「偶発性に任せること」



絵を描くときに、技術によって画面をコントロールしようとするタイプの描き方と、ある程度(または全面的に)偶発的に現れてくる効果を大事にしていこうというタイプの描き方があると思うわけです。


私の場合は、画面を常に把握していたいという気持ちはあるのですが、それは、感性の部分だけで技術によってコントロールすることには、それほど興味が行きません。
(まったく興味が無いということでもないですけれど)

また、制作の過程が進んでいくと、だんだん偶発性に任せる部分の方が多くなっていくわけなのです。
(普通は逆なのかも知れませんけど)


絵が形になってくると、その路線でまとめようとする気持ちが出てきてしまうので、その線を崩して、新たな局面を展開したくなるのだと思います。

そうやって新しい局面を加えて行った分だけ、絵に〝深さ"が出ると思っているわけです。

それから、技術で画面をコントロールできたときの「うれしさ」と、偶発的な効果が、自分の想像を超えて現れたときの「うれしさ」は、質が違うのかもしれませんが、私の場合、自力で達成した「うれしさ」よりも、自分の力とはいい難い面もある、偶然の効果による「うれしさ」のほうが、「うれしさ」が上回っていることが多いようです。

だから、どうしてもそちらに近よって行ってしまうのかも知れません。


技術的な満足感と言うのは、どうも「自己満足」のような気がしてくるのです。

反面、偶然現れた効果に直面すると、自分の作品であることとは無関係に、「うれしく」なってしまうわけなのです。


まぁ、『それも一種の自己満足だろ』と言われればそうなのでしょうが、『自分でやった』感じが薄いので、あまり気にせずにいられるわけです。


私の中では、この偶発的な「うれしさ」の方が「感動」に近いような気がしています。
つまり、「感動」とは、何かに〝直面すること"なのかもしれないなと。


こういうことに、いまさら気が付くとは、今までは何を描こうとしていたのかと。


そんな風に感じています。




関連記事

管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

QRコード

QR