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「奇跡」について



「奇跡」と言う言葉は、けっこう簡単に使ってしまうわけですけれど、本来は、「神」に直結した神聖な言葉なのではないのかなと思うわけです。


本来「奇跡」とは、ただ単に有り得ないようなことが起きたというのではなく、神的な力が降臨して行われたことを指して言うことなのかなと。

でも、現代人にとっては、神聖さがあまり強く感じられない方が都合がいいようにも思えるわけです。

現代社会においては、「神」の存在感はかなり希薄だと言わざるを得ないわけですが、そういう状態の中で、「神」を感じられて、なおかつ信仰心までは求められないで使える言葉が、「奇跡」や「天才」なのだと思うわけです。

だから、「神(信仰)」を失った現代人が、それらの言葉を、無意識のうちに多用するようになっているのかもしれません。


「奇跡」とは、その時代においての「最先端の不思議」=「人知を超えたもの」であると言い換えることができるように思うわけです。

「奇跡」だと思われることでも、その「不思議」な部分が解明されて、当然、そう成るべくして成っているとわかってしまうと、それは、もう「奇跡」ではなくなってしまうわけです。


マジックなんかでも「不思議」なものとしてみている時は、それが魔術的なものに見えるのに、種(たね)が解ってしまうと、それは一つの特技にしか見えなくなってしまうわけなのです。


逆のことも言えて、科学などの堅実な分野でも、まだ、、よくわからない部分の多いこととなると(例えば、遺伝子操作などですね)、それは、まったく「神秘」としか思えないわけですね。

そして、それも、ある程度まで解明されてしまうと、単なる「理論」としてそこに収まってしまうわけなのです。


つまり、「奇跡」とは、未だ解明されていない物事を、「神」のなせる業としてきたことの「名残り」であると思うわけです。

現在までに人間がたどり着いた結論は、実体のある「神秘」はいずれ解明されるということ、解明されない「神秘」には実体がないから、永遠に解明されないということ、そして、実体のない「神秘」はあまり役には立たないということ、ぐらいでしょう。


こんなことを言うと信仰心の厚い人は、怒るのかもしれませんが、「神」は、結局人間を救済しないと思うのです。

現在、「信仰」は人の精神を強くしているというよりも、それが依存するものになってしまっていると思うのです。


よくよく考えてみれば、「神」が人間を救済するはずはなく、試練を与えるに決まっているわけですから、人間を救済できるのは人間しかいないはずなのでしょう。


人間が、やっとの思いで人間自身を救済した時に、姿を現わして『これこそが私の与えた救済である』と言うのが、「神」というものの持っている本質的な構造なのだと思うわけです。

だから、こういうことを聞いて「信仰」を持っている人が怒るのは、ちょっとおかしくて、そのような「神」を「信仰」出来るのか?と言うところに、現在の宗教というものはあるように思うわけです。
(本当は昔からそうだったのかもしれませんが)

もし、「神」をそのように言うことを冒涜であると感じるのであれば、その人の「信仰」においては、「神」は絶対者ではないということに成ってしまうわけです。


とは言っても、私は「宗教」も「神」も否定するつもりはありません。
ただ、現在においての「神」や「信仰」の在り方が、私にはそのように思えるというわけです。

そして、時の流れの中で「神の時代」はその意味が薄れてしまったと思うわけです。


そして、それは「奇跡」にも同じようなことが言えていて、「信仰心」を持ちきれなくなった現代人が、「奇跡」や「天才」と言う言葉に陶酔してしまうのは、そこに依存してしまっているからのように思われるわけです。


だから、人間自身が人知を超えたことが出来るのか?ということになってくるわけですけれど、人間ですから、人知を超えられるわけないですよね。

だけど、人間ですから、人知の範囲内でいいんじゃないかと思うわけです。
そこで、『人間ですけど、なんか悪いんですか?』と言えるようになることが、人間にとっての救済なのかなと。


やや貧弱な感じもしますが、その”チープ感”を受け入れられるのかどうかが意外と高度な感じもするわけですよね。


それができれば、人間は「宗教」から抜けられると思います。


実は、そこから、本当の意味で、「人間」と言う「種」が始まるのかなと。
それこそが、人間の起こす最初の「奇跡」なのかもしれませんね。


そんな風に思っています。






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93:
※92
のまどさん、コメントありがとうございます。
今年の日本は、近年になく涼しくて過ごしやすくなっています。

「流行」っていうと、どうも私は穿った見方をしてしまいますね。

芯が無いというんですかね。
「核」に成るものを感じられないんですよね。
「流行」だから「核」がないのか、「核」がないから「流行」するのか?

たぶん、後者ですか?

日本の教育においても、哲学をもう少し取り入れた方が、ほかの分野にとってもいいように思います。
芸術でも、「人間的な力」みたいなものを感じないものには魅力も感じられないんですよね。

何も「凄い人」に成る必要はないと思うんですけど、正直さとかまじめさとか、と言った当たり前のことが軽視され過ぎているように思います。

まぁ、自分の若いころを考えると、若い人には何も言えなくなってしまいますけどね。
92:奇跡について
こんにちは。
普段の生活をしていると、こう言うテーマから遠い場所に居る訳ですが。
西洋なんて高校から哲学科が普通にあって、息子もやってましたが形而下・形而上の問題とか抽象論的な事象にも取り組まなくてはいけないみたいです。
日本はそれが道徳論に近くなりますね。
そこは少し日本の弱点と言うか、例えば国際的な学生の討論大会などになると、日本の学生は口ごもってしまうのではないでしょうか。。
奇跡は数学的な確率論で、宗教は宇宙の物理的な摂理だと思います。
それを仏教などは、天につばを吐けば自分にかかると解りやすく説明しているのでしょうね。。多分?

ただ宗教とか哲学を若手文化人類学者などが語るのが80年だ頃に流行り出版物も人気がありました、でも今思えばなんだかファッションと言うか流行みたいで薄っぺらい感じがします。

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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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