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「マンガ」から「アニメ」そして「オタク」へ



昔は、と言ってもだいぶ昔ですが、大人が公然とマンガを読んでいたりすると、白い目で見られるというようなところがあったと思うのです。

おそらく今の若い世代では、そんなことを言っても、それがどういうことなのかもわからないのでしょう。
つまり、一言で言えば、昔の人は”シンジラレナイほど頭が固かった”わけです。


子供が読むものと大人が読むものは、はっきりと分かれていて、大人が子どもの読むものを読むことや、子供が大人の読むものを読むことは、「イケナイこと」に近かったわけです。

それが、「アニメ」と言う媒体を経たことによって、いつの間にか「大人用」と「こども用」が一体化して、その境界線も曖昧になり、お互いに出入り自由になったわけです。

そして、「オタク」が登場したことで、「こども用」であったはずの「マンガ」や「アニメ」が、とうとう「大人用」の文化になったと言えるのだと思うわけです。


そのこと自体の是非を問う気はありません。
取り敢えず、昔の人の頭が固すぎたのは間違いないので、その分だけは良かったのだと思います。


でも、それよりも、このことについて、不透明になっていることがあるように思うわけです。


この「マンガ」から「アニメ」そして「オタク」へという移行が、日本の社会にかなりの影響を与えたと思うわけです。

1.大人が幼児化したということ

2.子供が子供でいることを許されなくなったということ

3.「マンガ」と「アニメ」が文化として発展したこと

以上のようなことが考えられることだと思いますが、その中で尤も日本の社会に対する影響が顕著なのが、1.だというのはよく言われていることだと思います。

3.についても、よく語られますが、実際には、「マンガ」も「アニメ」も、かなり早い時期に頂点に近い位置にあったと思われます。
つまり、まだ「子供用」であった時点で、既に一つの頂点に達していたという感じがするわけです。
(この辺は、異論もあるでしょうから、私が勝手に言っていることです)

でも、どちらかと言うと、一番問題なのは二番目の「子供が子供であることを許されなくなったこと」なんじゃないかと思うわけです。


「大人が幼児化したこと」は、さんざん言われていますが、その結果、「子供が子供であることを許されなくなったこと」については見落とされがちです。

また、そのこと自体は、語られることがあっても、この「マンガ」から「アニメ」そして「オタク」へと言う文化の変遷の中で、それが語られることがあまりないために、その辺のところが、そっくり抜け落ちてしまうのです。


つまり、社会現象としての「マンガ」・「アニメ」・「オタク」はもう完全に「大人の領域の話」になっていて、「子供の領域の話」ではなくなってしまっているわけです。

だから、子供の話には出てこないのでしょう。


大人が幼児化したことの象徴が「オタク」であることは、ほぼ間違いのないことでしょう。
そして、幼児化した大人が「子供の領域」を奪ってしまっていることも、まずもって間違いがないことではないでしょうか?

さらに、社会機構の中で上位に居る「大人」が子供の領分を占めてしまっていることで、「子供が子供であることを許されない」という状態になっているように見えるわけです。


結果、「子供」は「大人化」するしかないわけですけれど、「子供」ですから「大人化」できないわけです。
「大人化」するには、経済力や社会的地位が必要になりますし、「大人」に与えられる権利も義務も与えられませんから、まったく無理なわけですね。

そこで、現在の「子供」は「子供社会」を「大人社会化」しているのだと思うわけです。
それが”イジメ”の構造の一端だと思うのです。


そしてさらに言えば、その「子供社会」の”イジメ”に近いような、”子供じみたイジメ”が、幼児化した「大人社会」に蔓延してきているというわけです。

そして既に、「そういう子供時代を経た大人」の世代に入っています。

つまり、子供時代には「子供であることを許されなかった」者が、「大人になってからは幼児化する」という歪んだ状況になってしまっているわけです。


この状況を克服するのは容易ではないように思われますけれど、どう考えても、抜け出さねばならないように思うわけです。


「オタク」と言う文化をどう扱うべきなのかはわかりませんが、少なくとも、海外で評価されていることなどを、手放しで喜ぶのはどうなのかなと。
海外の人は、そんな歪んだ社会の”ツケ”は負わなくていいわけです。
当然、その”ツケ”は、近い将来、日本人が負担しなければならなくなるわけです。


要するに、不自然な「子供の大人化」と「大人の幼児化」が、何度もその不自然な循環を繰り返した後で、そこから排出される「オタク」という文化に、まだ、そんな”ツケ”を支払ってまで、手放さないでいるだけの価値があるのか?ということでしょう。


いま起きていることは、目を開けて見ればわかることだと思うのです。
それを見ないようにするのも、また、たやすいことですけれど、それで、近い将来、困るのも確かなことなのかなと。

そんな風に思えるわけです。


※2019年5月に追記

「文化」としての「オタク」を批判しているわけではありません。
社会現象としての「オタク」についての話です。

例えば、かつて、「差別」のある国では、差別されている人種や階層の人が集まって、「スラム街」を形成していたわけですが、その「スラム」にも、「そこならではの文化」はあったでしょうし、その「文化」がいかなるものであっても、それを否定することに意味があるとは思いません。
 しかし、「差別」も「スラム」もなくした方がいいのは間違いのないことですし、もしも、その結果「スラム文化」が消滅してしまったとしても、それはやむを得ないことだということです。

海外においては、「オタク」の「文化的な側面」だけがの、意図的にクローズアップされて宣伝されているのでしょうから、外国人が「オタク」を「文化」として理解したり、評価したりするのは当然のことだと思います。

しかし、日本で暮らしている日本人にとっては、「オタク」が「ヒキコモリ」や「不登校」などと直結している「社会現象」でもあることは、避けようがない事実であり、そこから、「学校の悲惨なイジメ」や「子供の自殺」までは、すぐそばの位置にあるということも、また明白なことです。
そんな状況の中で、その現実を直視せずに、あくまで『オタクは世界に誇るべき日本の文化である』と言い続けることは、かつての「スラム街」において、『臭いモノには蓋をして』結果的に「差別」を容認し続けていたのと同じことに成ってしまうのではないでしょうか?

やはり、「オタク」については、「社会現象」として、もう一度考え直してみる必要があるのではないでしょうか?

私は、そう思います。




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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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