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宗教のソフト化



宗教がソフト化してきていると思うわけです。


最も端的な例で言えば、他の宗教を排斥しようとしなくなったということです。
その分だけでも、争い事が減ったのであればいいことだとは思うのですが(本当に減ったのかどうかはわかりませんが)、宗教の本質を考えると疑問が出てきてしまうわけなのです。


もともと、宗教は、自分たちの信じる「神」や「教義」を、”絶対”とすることを基盤として成り立っているものだと思うのです。


それなのに、他の宗教を認めてしまったら、「自分たちの信じる神」が「唯一無二の絶対者」ではないということになってしまうわけです。

そこのところを、、『神は一つであって、宗教の違いは些細なことである』と言ったとしても、その「些細な違い」があるということが、”絶対”ではないということになってしまうわけです。

やはり、『それは些細な違いだろ』と言うのは人間レベルだと思うのです。


もしも、一つの「神」であって、かつ、その「神」が”絶対”であるならば、その「神」の言葉である「教義」や「教典」は、一語一句まで全て同じになるはすで、それが違うということは、その「神」が違う「神」であるということなわけです。

そうでなければ、その「教え」は、どちらかが「偽り」であるということになってしまうわけなのです。


要するに、「争い」を避けるために、その辺をあえて曖昧に捉えるようになってきたのだと思うわけです。

それは、それでよかったのかも知れません。


そして「スピリチュアル」というものも
そうした「ソフト化した宗教」の一種なのだと思うのです。

「スピリチュアル」の場合は、『神は世界に遍在している』と言うような考え方なのだと思います。
『世界全体が神で満たされている』と言う感じでしょうか?

だから、わけ隔てる必要がないのでしょう。


「争い」が少しでも避けられているのであればいいことだと思うのですが、”絶対性”を曖昧にすると、宗教の「存在意義」がなくなってしまうのではないかとも思うわけです。

もともと、”絶対”であることで「拠りどころ」となり得たわけですから、”絶対性”が曖昧になれば、”頼りにならなく”なってしまうわけです。


また、「スピリチュアル」は、『世界は神で満たされている』という考え方なのであれば、もうすでに「スピリチュアル」な世界が実現済みなわけですから、それ以上は必要ないということになってしまうと思うのです。

あとは、その「実現されている神の世界を」楽しむという、「娯楽」のようなことに成るのかなと。
それは、いま現在「平和な社会」でしか”享受できない”ものなのではないかと思うのです。


戦争や内戦が日常化しているような地域で、そういう”おおらかな”考え方をするのは、難しいことのように思うのです。

それができる人もいるかもしれませんけれど、ほとんどの人はできないでしょうし、『それができないことは、残念なことだ』という考え方は「酷」だと思うのです。


やはり、「神」などの”絶対的”なものを基盤において考えて行けば、必ず「争い」が起きるのだと思うのです。
それなのに、その「神」は”絶対”ではなくなっているわけです。
(個人の中でではなくて、現代と言う時代の中でですね)


1.”絶対”とは言えなくなってしまった「神」を信仰しながら「平和」を求めていくのか?
2.「神」に与えられた「平和」を享受して、「争い」とは無縁の暮らしを追究するのか?
3.人間が「神」に頼らず「自己責任」で「平和」を創り出していこうとするのか??

と言う選択肢なのだと思います。


人間が「自己責任」で「平和な世界」を生み出せるのかどうかはわかりませんけれど、少なくとも、そこに向かうことは「ある種の前進」なのだと思うわけです。

そして、自分でできないことは、「神」に頼ってもできないような気がするわけですね。

他の二つの選択肢は、時代の流れの中で見ると、「ある種の保留」なのかなと。


いずれにしても、『平和が好き!』ということなので、「宗教」や「スピリチュアル」を否定するものではありません。
それらは、個々の人の「心の中の平和」を実現するのには有効なのかも知れません。

それから「世界を平和にしよう」と言う話でもありません。

「時代の流れ」と言う視点で見ると、こんなことが起きているように見えるということです。


さしさわりがあったら、ごめんなさい。




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