いま、何かから「逃げること」の意味
「逃げること」と言うと、あまりいいことだと考えられてはいないと思います。
でも、現在は「相対化の時代」でもあると思うわけです。
「相対的」に物事を見た場合、「逃げること」を「攻めること」と捉えることもできるわけです。
つまり、相手から遠ざかることは、相手を遠ざけていることでもあるわけです。
ある一つの基準点を想定して、そこを中心にして全てのもの事を測れば、中心から遠ざかっていくことは、「逃げること」でしか無いわけですけれど、そういう「絶対的な中心」、即ち「基準」を喪失した現在においては、積極的に「逃げること」は、「責めること」にも成り得るわけなのです。
だから、現在、何らかの形で「逃げている人」や逃げ場さえ失くして「ヒキコモッテ」いる人は、その状況を、もっと積極的なものと捉えてもいいように思うわけです。
もともと、なんで「逃げること」になったのかということを考えれば、何か”嫌なもの”があるから逃げるわけでしょうから、そちらが、そもそもの原因なわけで、「逃げている」側ばかりを責めるのもどうかと思うわけです。
と言うよりも、現状を見ると、『逃げるやつは弱い』で済ませてしまうには、あまりにも、「逃げている人」の数が多いと思うのです。
みんながどこかに『逃げ込んでいる』ように見えるのです。
そんなに、みんなが弱いとは思えないのです。
実際に、十分に強い人ですら、何かから『逃げざるを得ない』状態になっているように思います。
そしてまた、さほど強いともいえないような人に限って、『逃げることなく、のうのうとしている』ということも、よくあるような気もします。
いずれにしても、今、「逃げること」を非難しても、なんにもならないような気がするわけです。
こんなにたくさんの人たちが、「逃げているという現実」を直視して、みんなが何から「逃げている」のか?
何が”嫌なこと”なのか?ということを見つけ出して、それを排除していかなければ、結果的には、何の成果も得られないと思うのです。
おそらく、その”嫌なこと”とは社会の効率を高めるために存在しているもので、それを排除してしまうと、利益を阻害されると考える人たちが居るのでしょう。
でも、もはや、それが逆転していて、それを排除できずにいることの方が、余程、社会の利益や効率を阻害しているわけなのです。
ですから、いま「逃げている人」は、自分が社会の弊害になっているものをいち早く見出して、それを排除するための因子となるために、その位置から無言の抗議をしているのだという捉え方をしてもいいように思うわけです。
そして、後になって歴史を振り返れば、きっと、それが事実となっていくのでしょうから、それは、恥じることでも自己憐憫を感じるようなことでもないと思うわけです。
だから、『逃げています』とか『ヒキコモリです』とかいう必要すらもなくて、『いえいえ、あなたたちの方が、私の無言の抗議に耐えられずに逃げているのです』と言ってもいいように思います。
「逃げること」を擁護するつもりで言っているのではありません。
「いま、逃げること」が「普通の逃げること」とは違うように思えるということです。
「逃げている人」が戻ってこないと、「逃げている人達自身」も、「逃げていない人達」も同じくらい困ることに成るのでしょう。
だから、みんなで”嫌なもの”を排除していった方がいいのかなと。
その”ギスギス”して”トゲトゲ”したものを排除していけば、自然に、みんな戻って来るのではないのかなと。
それは何なのか?たぶん「意味のない競争」です。
『なんで、競争するのか?』
『そこに競争があるから』
『意味はない』
『害はある』
以上、
です。
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