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相対化した時代の「芸術の中心」



現在は、一面として「相対化の時代」であると思うのです。

その「相対化の時代」においては、中心と言う概念が失われてしまう傾向があると思うのです。
そんな現在において、「芸術の中心」に果たして意味はあるのでしょうか?


本当のことを言えば、そこに意味はないのかもしれません。

こんなことを言ってしまうと、このブログの中心テーマである「宣言文」で、『いま、芸術の中心を規定しなければならない』と言っていることと矛盾してしまうわけですけれど、実際には、「芸術の中心」自体や、それを模索したことによって得られる成果に意味があるのではなく、それを模索し、設定するという”行為”の方に意味があると思っているわけです。


つまり、「芸術の中心」自体はどこでもいいし、人によって、さまざまでもいいのだと思っているわけです。


私が、最も重要だと考えるのは、それが規定されているという状態です。

「それがいつも意識され、常にそれを規定しようとする力が働いている状態」という言い方の方がいいのかもしれません。


その既成事実がありさえすれば、そこから位置を測ることが可能になってくるわけですし、人それぞれの「芸術の中心」を、身勝手に規定していても、そこからも、また、他のものとの距離を測ることが出来るわけです。


『それじゃあ、規定されていないのと変わらないじゃないか』と言われてしまうかもしれませんが、何も変わっていないようでいて、そこに潜在している意味が違ってくるのだと思っています。


「相対化の時代」に「中心」を設定することは”不可能”だと思いますし、それは事実上の意味を持ちえないわけですけれど、その”不可能”に対して、常に対峙し続けるという姿勢を失ってしまうと、何も生み出されなくなってしまうように思うわけなのです。

ですから、その「芸術の中心」は、常に仮のものであるともいえるわけですが、それでも、そこに向かって行く姿勢を持ちつつ、また、それを維持していかなければ「芸術」と言う枠組み自体が崩壊してしまうと思うのです。

もちろん枠組み自体に固執するという意味ではなく、何も生み出されなくなってしまうということが問題なわけです。

『それでいいのだ』と言われれば、そうなのかも知れませんが、私はそう思わないということなのです。


「芸術の中心」を失うということは、「芸術」を失うことでもあります。
「中心の設定」に自由度を与えることと、それを失くしてしまうことは全く違うことだと思うのです。


相対化することは必要だと思いますし、指し示されたその方向は、間違っていないように思います。
と言うよりむしろ、他に進むべき方向が残されているとは思えないわけです。

ですから、今、最も真剣に考えるべきは、実質的な意味を失った「芸術の中心」を規定するという行為に対して、如何にして対峙し続けるかということだと思います。


それは現在最も”顧みられないこと”であります。
そして、その”顧みられないこと”にこそ力を注ぐ価値があると思っているわけです。

そこを避けて通れば「芸術」から”外れて”いきますし、そこに向かって行けば、”顧みられ”ません。


そんな中で、最も平凡で最も普通の位置に「コロッ」と転がっている、「芸術の中心」を見つけ出していきたいなと。

そんな風に思っているわけなのです。






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