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「空気を読む」ということ



現代社会においては、「空気を読むこと」が必要以上に重要視されているように思えるのです。
でも、それは単なる”日和見”にしか思えない場合がとても多いわけなのです。


『空気を読む』と言っていますけれど、読んでいるのは、強い立場にある者の「空気」である場合が非常に多いわけで、弱い立場にある者の「空気」を読んでも、それは「空気を読んだこと」にはならないわけです。

つまり、それは日和見的な人間が、自分の日和見的な行為を正当化するために、『空気読めよ!』などと言って、自分の日和見な姿をゴマカシているのに過ぎないわけです。


「空気」なんか読めなくていいと思うのです。
「空気」なんて無視して、やりたいようにやればいいと思うのです。


いま、必要なことは、「空気を読む」ではなくて、
「人の心に同化すること」だと思うのです。


悲しんでいる人が居たら、「自分も悲しくなること」

何かに憤慨している人が居たら、「一緒に憤慨できること」

喜んでいる人が居たら、「自分まで意味もなく喜べるということ」

そういう、感情が希薄になっているように思うわけです。


もちろん、自分自身が「喜怒哀楽」を感じることも、感情の起伏なのでしょうが、人のつながりが薄くなってしまっている現在、人の感情に同化できるということが、最も重要視されていいように思うわけなのです。

そして、そうした「心の同化」から生まれるものが、とてつもなく大きいように思うわけです。


一人の感情は一人分ですが、「同化」して、「共有」された感情は相乗的な広がりを持つのだと思います。

それに比べて、『空気を読め!』はどうでしょうか?
私は、そこに、ちっとも広がりを感じませんね。

いま、「同化」がもっと重要視されていってもいいのかなと。
そして、「空気読め!」はもっと軽視されてもいいのかなと。


そんな風に考えてしまうわけなのです。




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