「独創性」について
芸術に「独創性」は不可欠なものということに成っているわけですが、私はそうでもないのかな?と思っているわけです。
もともと、芸術において「独創性」が重視されるのは、現在の芸術が「自己表現」だからだと思うわけです。
確かに、確立された「自己表現」が、「独創性」を伴うことは多いと思うのです。
しかし、「独創的」なものが「自己表現」であるとは限らないとも思うのです。
つまり、「自己表現」を追い求めれば、結果的に「独創的」に成るという原則はあっても、「独創性」を追い求めれば「自己表現」に至るという法則は無いということですね。
「独創性」を「人と違うこと」と考えた場合、「人」が基準になっているわけです。
だから、本当の「独創性」は、「人と違うこと」じゃなくて、「自分であること」だと思うわけですが、それでも「人と違うこと」を「独創性」ではないと言い切れるのか?と言われれば、それも、また、出来ないといわざるを得ないわけですから、それで、そこに矛盾が出てきてしまうわけなのです。
「自己表現」は「自分」が基準である筈です。
だから、「独創性」を「人と違うこと」と考えた場合は、「自己表現」とは一致しないこともあるわけです。
一般的には、人と違っていれば「独創的」といわれますが、そこには、「より自分的である」と言う基準は無いわけです。
ただ単に、まったく同じ顔をした人が居ないように、まったく同じ「自己表現」もありませんから、「自己表現」が「独創性」と同じように見えているだけで、この二つは、オオモトのところでかなり違っているようにも思えるわけなのです。
それなのに、この二つが混同されていると思うのです。
そして、『まったく同じ顔の人はいない』のも確かですけれど、『人間の顔なんて、みな同じところに目鼻がついている』ということも、また、確かなことなわけなのです。
だから、人間の「自己表現」なんて、”みんな違っていて、みんな似ている”ものだと思うわけです。
ところが、「独創性」が重視されるあまりに、「ナニカと似ているもの」は「独創性」が無いと判断されてしまうわけです。
そこで、みんなして「独創性」を”チマナコ”で追いかけますから、乱獲され尽くして、「独創性」が「絶滅危惧種」に成っているわけです。
と言うより、もう絶滅しているかもしれません。
それすらわからなく成っています。
一時の「ニホンオオカミ」のような状態です。
ひょっとしたら、本当は、他の誰かが「本物の自己表現」として見つけ出す筈だったものを、その前に、ただ単に「独創性」を追い求めた者達が、根こそぎ刈り取ってしまったわけです。
現在は、そういった使い捨てられた「独創性の残骸」のなかで、その残骸のゴミの山から使えそうなものを拾い集めるような作業をやっているようにも思えるのです。
だから、「独創性」から意識を離さなければいけないと思っているわけです。
「独創性」にとらわれて「自己表現」を見失うことは本末転倒でしょう。
でも、です。
頭から離れないのです。
「独創性」が。
「独創的でありたい」と言う欲求が、なかなか捨てきれないわけです。
そんなことにとらわれずに、自分の「衝動」に意識を集めるようにしたいと思うわけです。
このスッカラカンに刈り取られた状態が特殊なのだと思うわけです。
そういう風に考えて、もういなくなった「希少種」を追うのではなく、普通によく見かけるような「種」の方に目を向けるべきなのかなと。
「イリオモテヤマネコ」が発見されたとき、現地の人たちは、普通の猫が野生化したものだと思っていたという、そんな感じですか?
どっちにしても、「独創性」より「普遍性」かなと。
それよりなにより、「自分性」かなと。
そんな風に思っています。
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