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「色の形」と「形の色」(つづき)



このまえ書いた記事で、私にとって「絵画」とは「色の形」と「形の色」だと言ったのですが、これについて、もう少し付け加えておこうと思います。


先ず、「色の形」とは色の面が持っている形のことを、私がそういっているわけです。
つまり、赤い色を四角く塗れば、その「四角形」が、その赤い色にとっての「色の形」に成るわけです。

でも、「絵画」はベタッと塗られた面だけで構成されるとは限らないので、色の変化があるわけです。
そこで、その赤の色の範囲がどこまでなのか、と言う境界線が「色の形」の輪郭になります。


それが、はっきりしていても、グラデーションのように輪郭線が曖昧な場合でも、そこに「色の形」は存在すると思っています。


「形の色」については、何か表現したいことを、何らかの形に託して、それを絵具で描きますから、色で描くわけです。
その時、その形を描いた色が「形の色」ということに成っています。
(私の中では勝手にそういうことにしています)


具象画であれば、描く対象の”物の形”を絵具で描けば、その色が「形の色」になります。

これは抽象画であっても同じことです。
「抽象画」であっても、やはり何らかの「形」に頼らなければ何も描けませんし、何かを描けば、必ずそこに何らかの「形」が発生するわけです。
(これもやはり、境界線をボカシテいったとしても「形」が完全に無くなるということはないと思っています)

それを「形の色」と言っています。


例えば、具象画で言えば、黄色い花を黄色い色で、花の形に描けば、黄色は「色の形」の”色”でもあり、「形の色」の”色”でもあります。
また、花の形は「色の形」の”形”でもあり「形の色」の”形”でもあるわけです。

従って、その場合は、「色の形」と「形の色」が一致しています。


ただ、これを「黄色い花を描いている」と言うのは、間違いだと思っております。
正しくは、「黄色い花の”絵”を描いている」わけです。

絵を描くときに、「花の形」と「花の色」を借りているだけのことだと思うのです。


つまり、その花を見たときに受け取った”インスピレーション”を、そのまま花の色と形に託して表現したということです。


そして、その”インスピレーション”を何かほかの形や色に託して表現することが、抽象と言うことだと思っております。


例えば、色や形を少し”ズラシ”たりするだけでも一種の「抽象化」に成ると思いますし、まったく”物の形”や”物の色”に頼らずに、一から創作した色と形で画面を構成するのも「抽象」だと思っています。

「具象」から「抽象」までのどこに留まるのかは、作者の好みだと思います。


ただ、どの位置に立って創作する場合でも、その過程で、「色の形」と「形の色」を分けて意識する必要があるように思っております。

その二つを別のものとして意識していないと、単なる模写の域を出ることが出来ないと思うわけです。


つまり、まったくの具象画であっても、「色の形」と「形の色」が、たまたま一致しているだけで、それらを使って自分が表現しているものが何であるのかを、意識できていなければ、それはただ単に、物の形や色を写し取っているに過ぎないわけなのです。

 ※そういうのは、「花の”絵”」を描かずに、「花」を描いているというパターンですね。
  それを「イラストレーション」と言うんだと思います。
  私は「イラストレーション」と「タブロー」は区別して考えるようにしています。

要するに、何かを表現していることにはならないということですね。
正確に言えば、表現しているのは絵を描いている[作者」ではなく、
描かれている「物」の方だということに成るのかもしれません。

花を写し取っただけでは、美しさを主張しているのは花であって、作者の自己表現にはなっていないということでしょう。


つまり、現実にある”物の形”や”物の色”を抜け出して、そこに「自己表現」としての世界を創作するためには、”物の形”ではなく「色の形」、”物の色”ではなく「形の色」、を使っていく必要があるように思うわけです。


『でも、絵具だって物質だから物に違いはないだろ』と言われればそうなのですけれど、『絵の中では絵具は”物”ではない。それは”色”である』と思っております。


ですから、「絵」を描くということによって、絵具の色は純粋な”色”となり、そのことによって、「色の形」と「形の色」を分けて捉えるということが出来るようになるのだと考えております。

だからこそ、そこに「一枚の絵(タブロー)」としての「絵」の意味が生まれるのだと思っております。


印刷された絵やデザイン的に塗り分けられた画面からも、鑑賞者が何らかの”チカラ”を感じ取ることは出来ると思っていますが、やはり、それは「一枚の絵」として描かれた「絵」とは違うのだと思うわけです。

作者が画面を構築するという作業があって、初めてそれは「絵画」と呼べるものに成るのだと思っています。


ですから、絵具を使って、画面を構築するという作業を含まない種類の絵は、「一枚の絵」としての意味を持っていないと思うわけです。

従って、それを「タブロー」とは呼べないのかなと。


そのような、私的な捉え方であります。




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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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