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「参加型の芸術」



「参加型の芸術」というのが、増えて来ているように思うのです。
そして、『そこに「芸術の未来」があるのではないか?』と言われることがあるわけです。

でも、私は表現者と鑑賞者の境界を曖昧にしてしまうことに、「芸術の未来」はないと思うのです。


いや、むしろ、「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」の三者は、真っ向から対峙してこそ「芸術の未来」と成り得るのだと思うわけなのです。

 ※私は「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」の三者を対等に対峙する関係と考えるために
  「芸術家」という言葉の代わりに「芸術者」という言葉を使っています。


「参加型の芸術」を否定するわけではありまんし、そういう「芸術」もあっていいとは思います。

でも、『そこに「芸術の未来」があるのか?』といえば、『無い』と思うのです。
あるのは「芸術の現在」だけですね。

要するに「流行」っていうことだと思うわけです。


「参加型」であることで、見に来る人の幅が広がるでしょう。
「参加型」であることで、見に来る人の数が増えるでしょう。
「参加型」であることで、見に来た人は喜ぶでしょう。
「参加型」であることで、一度見に来た人がまた来るように成るでしょう。
そして、以上四つのどの点でも、テーマパークやスポーツイベントには及ばないでしょう。

上の四つまでは”エンターテイメント化した”からで、最後の一つは”エンターテイメントにはなりきれない”からでしょう。


もともと、芸術は”エンターテイメント性を排除した”唯一の娯楽だと思うわけです。

『娯楽ならエンターテイメントだろ!』と言われそうですよね。
確かに、”ほぼその通り”なのだと思います。

でも、ほんの僅かですが、娯楽はエンターテイメントよりも広い領域だと思うのです。
そのほんの僅かの違いの部分にあるのが「芸術」だと思うわけです。


「エンターテイメント」は「楽しさ」や「面白さ」を追究しますが、「芸術」では「美しさ」や「真実」を追究します。

「エンターテイメント」では「みんなが楽しめること」を目指しますが、「芸術」では、「みんなが面白いと思うこと」は目指しません。

作者は自分の中にある「真実」を鑑賞者が共有してくれることを望むものだと思いますが、それは「目的」ではなく、「結果」としてです。


そこにエンターテイメント性が全くないとは言いませんけれど、結果として、「芸術性」を追究すれば、「エンターテイメント性」が失われていくというのは、”必然”だと思うのです。

「芸術性」とは、そういうものなのではないかと思うわけです。
だから、「エンターテイメント」を「芸術の未来」とか「芸術の中心」に据えてしまうと、「芸術」は存在意義を失って、自己崩壊してしまうように思うわけです。


ほかにも「エンターテイメント」だけでは成り立たないジャンルはあります。

例えば、スポーツにおいて「面白ければいいだろ」ということで、「真剣勝負」の要素が薄められてしまえば、きっと、スポーツと言うジャンルは自己崩壊してしまうでしょう。


プロスポーツの選手たちが、『プロなんだから見せ場、作んなきゃ』ということで、『ここは、俺が負けるとこなんじゃないか?』と、”場の空気を読んだサービス”をするようになれば、一度か二度は、盛り上がるかもしれませんが、たぶん、続かないでしょう。
(「八百長」云々は抜きに考えたとしてもですね)


結果的に、それは「芸能」と区別がつかなくなってしまうでしょう。
極端に切り詰めて言えば、それは「体を張った演劇」ということになってしまうわけです。


『それでも面白ければいいじゃないか!』と言われればそうなのでしょう。

ただ、それは「もう、スポーツではない」ということです。
そして、スポーツと言うジャンル全体が、そういうふうになれば、スポーツと言うジャンルが自己崩壊してしまうということです。


スポーツの場合は、もともと「ゲーム」ですから、「面白さ」を追究するジャンルでもあるわけです。

それですら、このようなことはあるわけですから、もともと、「面白さ」を追究していないはずの「芸術」で、「参加型」と言う「エンターテイメント」を「芸術の未来」に据えてしまえば、自己崩壊は必至ということでしょう。


これは、ただ単に”「行き場」が見つけられなくなっている”だけだと思うのです。

要するに、”苦し紛れ”な感じがするわけですね。


あらゆることがやりつくされてしまった感がある中で、何か目新しいものを提示されると、どうしても、それに飛びつかざるを得ないといった、『藁をもすがる』というような感じがあるということです。


いま必要なのは、鑑賞者が「芸術」に参加できることでも、作者と鑑賞者が一体化しすることでもなく、「表現する側の人間」と「それを受け取る側の人間」が、強い気持ちで”対峙すること”なのではないかと思うわけです。

そして、作者と鑑賞者の双方が、そういう「真剣勝負」を展開することが出来るような「芸術の場」と「時代の空気」を作ることが求められているように思います。

現在は、「表現する側」も「それを受け取る側」も、「空気の読み合い」をしているように見えるのです。

「表現する側」は『こんなのがウケルんじゃないか?』といつも読んでいますし、「受け取る側」は『これを面白いと言った方がカッコイイんじゃないか?』といつも読んでいます。

そこに「真剣勝負」の気配はありません。


こういう「小競り合い」のようなことを繰り返しているうちに、自己崩壊が始まってくるということかなと。


そういうことを思わざるを得ないということが、とても寂しいことのように、思ってしまうわけなのです。




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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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