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「あやまる」という文化



「あやまること」は一つの文化だと思うわけです。


よく、『日本人は自分が悪くもないのに誤ってしまう』とか、『西洋人はなかなか謝らない』などと言われたりもしますが、こういう「あやまること」に対する考え方と言うのは、その国の文化を象徴しているのだと思うのです。


そして最近、日本人でも「あやまれない人」が増えてきているように思うわけです。
要するに、これは考え方が「西洋化」してきているのだと思うのです。


このことに限らず、このところ世界中が西洋化(アメリカ化?)してきているように感じてしまうわけです。

世界が共通の概念や文化を持つようになっていくことが、いいことなのかどうかはわかりませんが、少なくとも、この流れは止まらないのでしょう。


でも、どうせなら一つの国の概念に染まってしまうよりも、いろいろな国のいいものを集めた方がいいと思うわけです。


そして、この「あやまること」に関してなどは、『あやまりすぎる』と言われる日本の文化が、私には、とても”特異な”ものであり、かつ”未来的な”ものでもあるように思えるのです。


つまり、「和」を重んじた形が、『悪くなくてもあやまる』と言う文化なのだと思うのです。

そして、世界共通の概念を構成しようとするのであれば、こういった「和」の文化が必要になってくるのだと思うわけです。


もちろん、これは「あやまられる側の人」も、「和」の心を持っていないと成り立たないわけですから、そういう意味でも、世界共通を前提にしてこそ成り立つものなわけです。


と言っても、現状においては、まだ共通の概念が形成されているわけではありませんから、「あやまる文化」は弱腰に見られてしまうわけです。

要するに、”ツケコマレル”わけですね。


でも、「迂闊にあやまると付け込まれてしまう社会」と

「悪くなくても、『ゴメンナサイ』と言うと『いえいえ、こちらこそ』などと返ってくる社会」と、どっちがいいんでしょうか?

争いの時代を終わらせるのであれば、後の方がいいんじゃないかなと。


そこらじゅうで『ゴメンナサイ』と言っているような国って、なんとなく、住み易いような気がするのですが、どんなもんなんででしょう?


と言うわけで、こんなつまらない話で

『ゴメンナサイ』



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