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「芸術による感動」の限界



「芸術による感動」について、それが”とてつもなく大きいもの”だという話になってしまうことがあるわけですけれど、実は、そこには案外低い位置に「限界」があるように思うのです。


確かに、「芸術」が生み出す「感動」は、何物にも代えがたいものなわけです。

でも、『背に腹は代えられない』と言う言葉があるように、それはあくまで、最低限の「安全」や「健康」や「物質的な充足」が満たされていての話だと思うのです。


もちろん、どんな状況においても「芸術」は”人の心を癒す”のでしょうが、それでもやっぱり、飢餓状態の人に、「絵に描いた餅」を有り難いと思えと言っても通じないわけです。

「芸術」は”心の糧”となるものだと思いますし、それが生涯を通じて続くこともあるでしょうが、「芸術」が人に与えることが出来る「感動」は、常に、「食べること」や「生存すること」などよりも下に位置していると思うわけです。


更に言えば、「芸術」は、そういう「限界」を超えようとしてはいけないようにも思うのです。

つまり、「芸術」が「食べること」や「生存すること」を凌駕してしまうようでは、当の「芸術」の居場所もなくなってしまうのだと思うわけです。


もともと、「芸術による感動」は「個人の表現」の「普遍性」から生まれていると思うのです。
つまり、”たった一人の人の”「思うこと」が、”すべての(多くの)人の”「思うこと」であった時の「感動」だと思うわけです。

だから、そういう”ありきたりな面”を見失ってはいけないような気がするのです。


そして、そういう”ありきたりな”「芸術による感動」に、どれほどの力を注ぎ込むことが出来るかということで、どうにか”ありきたりな”「感動」が生み出されているのだと思うのです。


それで、そこに注がれた労力のことを思って、「芸術による感動」を、”とてつもないもの”のように扱うことに成ってしまうわけですね。

でも、実際には、「労多くして、功少なし」というのが「芸術」のあるべき姿のような気がします。


まぁ、そういう効率の悪い分野があってもいいんじゃないかと、そんな風に思ってやっている方がいいのかも知れないですね。

それに、そういう考え方だと、エラクもないのにエラク成るなんてこともないんじゃないのかなと。


そんな風に思っています。


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