「感動の仕組み」
芸術の意義の一つに、「感動」を挙げる人は多いと言えるでしょう。
その「感動」とは、どのような心の流れで生まれてくるものなのでしょうか?
まず、「感動」をどう定義するかですけれど、ただ単に「心を動かされる」ことを「感動」と言うわけでもないのだろうと思うのです。
「びっくりした」とか「面白いよね」とか「気に成る」とか言うものは、心を動かされてはいても、「感動」までは届いていないでしょう。
じゃあ、「凄く、びっくりした」とか「凄く、気になる」だったらどうかと言うと、これもちょっと違うかなと。
そうなると、『「感動」は「感動」ですよ』と開き直るしかないわけですけれど、そこで敢えて、「感動の仕組み」を探してみるわけです。
私の勝手な考えですが、「感動」とは、心の動きに「相乗効果」が発生した時のことだと思うのです。
何かに心を動かされて、それがそれだけに留まらず、「喜怒哀楽」のどれか一つでもなく、あらゆる感情が総動員されて、さらに、それらが「相乗的な効果」を生み出したときに、「感動」と言う「心の状態」が発生するのだと思っております。
言ってみれば、「ターボ・エンジン」みたいなものですか?
ここで、主に自分自身のことですけれど、この「相乗効果」が「空回り」する時がよくあるわけです。
芸術作品を鑑賞するときの自分の心の状態などによって、その作品から受け取ったものとは違うところで、「相乗効果」が「空回り」してしまったりするわけです。
これも一種の「感動」だと言えなくもないとは思うのですが、その作品に「感動」したとは言えないでしょうし、後でもう一度見ると「あれ、こんなんだったっけ?」ということもあるので、勝手に「モリアガッテ」、勝手に「ガッカリ」するのも失礼な話なので、なんとかしようと思うのですが、なかなかできません。
だから、「感動」をコントロールできたらいいなと思ってしまうわけですが、『それじゃあ、「感動」とは言わないだろう!』とも思うので、たぶん、できないのでしょう。
意図されたところに「感動」は無いのかも知れませんね。
「感動の仕組み」を探してはみたけれど、結局のところ、それはあまり役には立たないということがわかりました。
それはそれでよかったと言う気もします。
「感動の仕組み」を”仕組んではいけない”
そんな気もします。
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